鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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ちに希望を与える重要な出来事で、成園の画塾には入塾希望が相次いだ。南地の花街の芸妓を描く〈宗右エ門町のタ〉は前年に恒富が文展で発表した〈日照雨〉と主題が近く、恒富に代表される艶っぽい大阪画壇の美人画の典型とされた。翌年の第7回文展では子供の世界にもあらわれる社会階層の現実を描いた〈祭りのよそおい〉〔図2〕が再び褒状を受ける。大正3年には落選するが、翌年の第9回文展には〈稽古のひま〉と御風の〈村のわらべ〉が兄妹揃って入選、また第11回文展の〈唄なかば〉に第12回文展の〈日ざかり〉と、少年少女の世界を描いた作品で入選を重ねる。成園はこの頃、大正美術会や了々会、大阪茶話会など大阪画壇の新しい動きに男性と肩を並べて参加している。大正6年、再興第4回院展に落選した〈黒髪の誇り〉〔図3〕で、成園は初めて女性画家の特性を吐露した(注11)。身丈ほどもある豊かな黒髪を洗髪のため櫛で椛く図であるが、般若や姐の柄を身にまとい、乳房を露わに怨念の情をまなざしに湛えた女は、官能とは裏腹な畏怖を感じさせる。翌大正7年、京都の国画創作協会に対抗して結成された大阪茶話会の創立に唯一人女性として加わった成園は、6月の大阪茶話会試作展に〈無題〉〔図4〕を出品、美人を描くだけの美人画から決定的に踏み出した。画室に座るのは成園その人だが、〈無題〉では現実にはない症、が頬に描かれている。成園は制作意図を「症、のある女の運命を呪ひ世を呪ふ心持を描いたもの」(注12)と語り、症、の生み出す心情表現を狙いとしたが、傷ついた姿で観者を直に見返す〈無題〉は男性社会で女性画家として生きる成園の内面の自画像でもある。大正9年、第2回帝展に出品した〈伽羅の薫〉〔図5〕で成園は画業の頂点に到達する。ピアズレーなどアール・ヌーヴォーの女性像を思わせる長身の花魁は、替の大きさや身体の細さが極端にデフォルメされ、神々しいまでの後光で包まれる。赤と黒の対比が妖しい着物姿に、白い帝には年増の花魁そっくりに孔雀が描かれ、「伽羅のかをりとこの君さまはいく夜とめてもわしゃとめあかぬ寝てもさめても忘られぬ」との小唄にもある艶っぽさが匂い立つ(注13)。幼い成園は母の実家の茶屋に出入りする花街の女性を身近に見ており、成園の母をモデルにしたこの絵はその体験に拠ると思われる。二年後の〈銭奨〉〔図6〕にもみられる戯画的な要素と凄みとを併せ持つ〈伽羅の薫〉は、男性好みの女性像ではなく、木谷千種が志向した「年増美」の表現とも類似する(注14)。北野恒富が同年発表した〈淀君〉〔図7〕が〈伽羅の薫〉に及ぼした影響も指摘されている(注15)。大正9年11月頃、27歳の成園は銀行員の森本豊治郎と結婚、その後は画業を続けながらも第一線を退いて、惜しまれつつも作風を軽淡なものへと変えていく。174

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