鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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hd1回大阪美術展覧会への〈新居〉と同年秋の第9回文展への〈針供養〉初入選である。円i戸4.木谷(吉岡)千種活躍期の短かった成園を受け継いで大阪に女性画家の活躍の要を築いた千種は、昨年大阪の池田市で没後初の回顧展が開催され、調査研究が大きく進展した(注5)。吉岡千種は明治28年2月17日、大阪市北区堂島に生まれた。本名英子。母の早世により千種は堂島で唐物雑貨商を営む祖父母の元で育つが、洋画を志して12歳頃に渡米、2年間シアトル市で過ごし、明治42年に帰国する(注16)。府立清水谷高等女学校在学中から花鳥画家の深田直城に師事したが、島成園の文展入選に鼓舞されて本格的に画家を志す。女学校卒業後に家族と上京した千種は池田蕉園塾に2年ほど入門し、大正3年頃帰阪して野田九浦と北野恒富に師事した。画家としての出発は大正4年2月、第〈針供養〉は豆腐に針をさして供養し謝恩の意をあらわすという当時も色街の縫物屋に残る年末行事を描いた作品で、樋口富麻日の〈つやさん〉と同様、同じ文展に出品した恒富の〈暖か〉の影響を強く受けており、岡田播揚が指摘する「恒富形の流行」の勢いを裏づける(注17)。画家として千種の個性が真に発揮されたのは、大正7年の第12回文展に2度目の入選を果たした〈をんごく〉〔図8〕である。「をんごく」は大阪に伝わる孟蘭盆の遊戯唄で、千種は夏に病死した幼い愛弟への追慕に、子ども達が列になって町内を練り歩く懐かしい大阪風俗を絵にした。第4回帝展の〈近松戯曲の女二題〉や第5回帝展の〈女人形部屋〉など、千種はその後も文楽や人形浄瑠璃など郷土色豊かな世界を画題とする。しかし、努力むなしく文展や大展に何度も落選した後、千種は大正8年、大阪を離れて竹内栖鳳の紹介で京都の菊池契月に入門、大正9年に近松研究家の木谷蓬吟と結婚して大阪に戻ってからも京都の菊池塾に属した。千種の画風はこの頃から郷土大阪を画題にしつつも恒富風を脱し、第7回帝展の〈浄瑠璃船〉〔図10〕など、契月のあっさりした作風に近づく。女性画家は結婚や出産などで制作を断念しがちだが、千種は理解ある夫との安定した家庭基盤に支えられて出産後も一層画業を充実させる。大正9年、千種は大阪の自宅に画塾の八千草会を設立し、女性のための本格的な美術教育を目指した(注18)。八千草会には帝展作家の原田千里や狩野千彩など有力な弟子が集い、中でも三露千鈴は早世直前にキリスト教に入信し、〈殉教者の娘〉〔図11〕など優れた作品を残した。大正14年第6回帝展に出品した〈眉の名残〉〔図9〕は千種の作品中で異彩を放つ。警視庁総監から「今後かかる挑発的な画は製作しないように」と警告をうけ、作品撤去はまぬがれたという話題作で、同年10月に『アサヒグラフ』の表紙を飾った。牡丹

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