5.星野(岡本)更園灯龍がたなびく孟蘭盆に、若い未亡人が肉体の透ける黒い薄物をまとって眉を剃る場面で、乳首の赤さが際だつ。伊東深水の〈指〉(大正11年)を意識して制作された本作品については北川久氏の論考が詳しいが(注19)、千種は「若々しい華美な処女美よりも、年増美とでもいふものに気を惹かれます」と、盛りを過ぎて残された色気が凄みを帯びて美しい女性像を描くことに意欲を示し、それを具体化した作品である(注14)。千種は後進を指導する一方で自分も昭和18年第6回新文展まで出品、重要な女性画家として最後まで活躍した。星野更園(本名延子)は兵庫県有馬に明治28年3月28日に生まれた。美人画でも知られる義兄の岡本大更に16歳頃より絵を学び、大阪市東区農人町(のち南区清水町に移転)の大更宅で義兄と画室を共有していた。岡本姓で、デ?ビューするが、大正6年頃より本来の星野姓に戻している。大正3年第8回文展に〈秋のうた〉〔図12〕が初入選し、成園が落選した年でもあり、若い女性として、また大更と兄妹揃つての入選で一躍注目を浴びた。〈秋のうた〉は大更の影響が濃い美人画で、カチューシャを歌う松井須磨子を想起させると話題を呼んだ。翌年の文展には〈影絵の女〉が落選するが、大正5年の第10回文展には〈仕舞の部屋〉〔図13〕が入選したほか、大正4年の第l回大展に〈はれのよそほひ〉、大正7年の第4回大展に〈雪の日〉が入選している。また、大正5年には大阪毎日新聞で井田絃撃による連載小説「姉と妹Jの挿絵を担当し、大正6年2月には京都の風俗研究会写生会に伊藤小技らと参加するなど幅広く活動した。当時の新聞記事に登場する更園は、早くから画塾を聞いた成園や千種に比べて万事控えめで、弟子をとるなど考えられぬと謙遜するが(注20)、この頃の更園は大展や文展への度重なる落選で自分の実力不足を痛感していたと思われる。同じ頃に千種が大阪画壇を見限って京都の契月塾に移ったように、更園は知人の画家山内神斧に伴われて大正8年4月22日上京し、鏑木清方に入門した(注21)。更園にとって清方は初めての本格的な師で、意欲に満ちた上京であったが、東京滞在中の更園に目立った活躍は見られない。大正11年頃に養子を迎えて神戸に移り、大正14年の向日会結成には木谷千種や生田花朝とともに星野更園として参加、以後も神戸を拠点に画業を続けていたようで、昭和期には大江更園の名で登場する。なお、岡本大更に学んだ女性画家には更園のほか、小j畢益子、堀内更章、後に竹内栖鳳門下の山本紅雲と結婚する鳥居道枝などがいた。176
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