6.松本華羊松本華羊(本名新子)は明治26年東京に生まれ、大正4年1月、東京から来阪する(注22)。父の松本逼は大阪貯蓄銀行鑑査役である。幼少期からの虚弱体質で華羊は学校に全く通わず母や姉に勉強を学び、17歳の時に雑誌の口絵で池田蕉園の絵を見て入門、その後、尾竹竹坂に師事した。蕉陰と号していたが大正2年には華羊と改める。東京時代の華羊は巽画会や尾竹三兄弟とその門下による八華会展に出品、八華会の女性画家では尾竹一枝とともに有望視された。大正3年の大正博覧会や翌年の日本産業博覧会などにも作品を発表し、来阪後は第9回文展に平家物語を主題とする〈青葉の笛〉を出品、吉岡千種との同時初入選で注目された。華羊の文展入選は一度だけで、大正5年以降は続けて落選するが、大展には大正6年の第3回展に〈憐悔〉、第4回展に〈或日の記憶〉が入選している。ところで、大正7年の第12回文展に華羊は「江戸名所図に記された、小名川の朝妻桜」を描いた作品を出すが、その年の文展には奇しくも同じ画題の出品が重なり、鏑木清方の〈ためさるる日〉と栗原玉葉の〈朝妻棲〉の2点が入選、華羊は落選した(注23)。清方の〈ためさるる日〉は長崎の隠れキリシタンの遊女朝妻が絵踏をする場面をあらわし、玉葉の〈朝妻棲〉は刑場に引き出された朝妻が奮の桜を見て、せめてこの桜の咲くのを見たいと願うと奉行の温情で刑期が延ばされ、桜が花開いたその日の朝妻を悲愁の立ち姿で描く。現在福富太郎コレクション資料室に所蔵されている華羊の〈伴天連お春〉〔図14〕は同様の場面を描いており、華羊の第12回文展落選作ではないかと推測される。着物の襟に十字架模様をつけた女性が手首に鎖をつながれて莫産から満開の桜を見上げる〈伴天連お春〉は現存する唯一の明らかな華羊作品だが、北野恒富に代表される濃厚な大阪画壇の美人画とは一線を画した画風を示しており、興味深い。なお、第12回文展には清方と玉葉以外にも松島白虹の〈ジャガタラ文〉や島田墨仙の〈基督〉など、キリスト教を描く作品が例年に比べて多く、その年、異教や殉教というテーマが流行したことを示唆する。「多芸多能」で器用な華羊は日本画制作のかたわら洋画を松原三五郎の天彩画塾で三年ほど習い、彫塑を今戸精司に師事した。土いじりはやがて人形制作に発展し、大正6年には華羊、成園、千種、金森観陽ら十数名による泥人形展覧会が異賀根で聞かれるなど、華羊の人形制作熱は周辺の画家にも広がった(注24)。一方、華羊は積極的には画塾生をとらず、弟子として名が挙がるのは植月青華など数名に留まる。大正8年頃、活動の本拠を大阪に残しつつ華羊は御影にアトリエを移し、大正11年頃には大阪毎日の和気律次郎と結婚して阪神沿線の打出に新居を構えた(注25)。大正14年、向日-177-
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