鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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注(3) 『日本美術年鑑』国書刊行会、明治44年、498頁(4) リンダ・ノックリン「なぜこれまで偉大な女性芸術家がいなかったか」松岡和子訳、『美術手帖1(5)大阪市立近代美術館(仮称)展覧会「美術都市・大阪の発見一近代美術と大阪イズム」(ATC(6) 『中央美術J大正5年6月(7) 読売新聞・大正9年11月2日および(注18)参照(1) 吉井勇「浪華五十首j秋田貢四編『夜の京阪J、文久子土出版部、大正9年(2)小川知子「北野恒富と大阪の女性画家島成園と木谷千種」、「北野恒富展」図録(滋賀県立近(8) 向日会は女性画家13名による組織で、北野恒富と菅楯彦を大阪からの指導者とした。大阪女流画会の創立に参加するが、華羊のその後の足跡は不明である。大正期の大阪画壇に東京から新風を持ち込んだ華羊は、尾竹(富本)一枝との親交もあり、東京と大阪の女性画家を繋ぐ存在としても興味深い。7.おわりに今後の展望と課題以上考察した四名の女性画家は大正期前半に活躍するが、千種と更園は大正8年に大阪を離れ、成園も大正9年に転機を迎えた。大正期後半から昭和にかけて活躍するのは、千種とその弟子に加え、生田花朝など北野恒富門下生や矢野橋村門下の融紅鷲など次世代の女性である。彼女たちは帝展や院展、大展だけでなく、京阪女流画家展や小規模の女性グループ展などにも発表する機会を得た点で、先駆者の世代よりも恵まれていた。女性画家の活動が広がった功績の一端は、契月塾に入って大阪と京都の女性画家を結びつけ、八千草会を慈しみ育てた木谷千種に帰すると考えてもよいだろう。大阪画壇は東京や京都ほど画家同士の序列が緊密ではなかったことが幸いして多くの女性画家が育ったという印象もある。今後の研究は、大阪画壇の特性をより一層把握するとともに、画業と結婚、師弟関係などジェンダーの視点を要する近代の女性画家に共通の問題を考察し、大阪画壇の女性を同時代の他の女性画家たちの活動と結びつけていきたい。代美術館他、2003年)162〜169頁1976年5月号(LindaNochlin,“Why have there been no great women artis臼?”,ArtN巴ws,69, no. 9, January 1971)。日本美術に関してはパトリシア・フィスター『近世の女性画家たち:美術とジェンダ−j思文閣出版、1994年/「奔る女たち女性画家の戦前・戦後1930〜1950年代」展(栃木県立美術館、2001年)などが重要な成果を生んだ。ミュージアム、1997年)/「女性日本画家木谷千種ーその生涯と作品」展(池田市立歴史民俗資料館、2002年)家展は恒富、楯彦に矢野橋村を鑑査員に加えた日本画公募展である。-178-

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