00 00 る限り、比較的短期間で均一な結果が得られるのである。このように、建築の広範囲な表面を覆う為には、クエルダセカ・タイルの優位性は明白であり、イスファハーンをはじめとする、多くのサファヴィ一朝下の建築装飾として選択されたのであろう。技術的には、下絵付けタイルでは、彩色を施した後、最後に透明柚を表面に掛ける工程を経なければならず、一回の彩色で終わるクエルダセカ・タイルと比べると手聞がかかる。素材に関しても、透明紬は、素地が白いことを必要とし、珪石を主とした複合胎土を高い焼成温度で焼かなくてはならないが、クエルダセカ・タイルでは、素地は不透明な着色紬に隠れてしまうため、粘土質のより安価なタイルに彩色出来るのである。この技術的に複雑で、手間のかかる下絵付けタイルが、ケルマーンで生み出されたことは、この街が当時、良質な下絵付け陶器を大量に製作していたことと無縁ではない。事実、イスラーム陶芸史上、タイル職人と陶器職人がしばしば同人物であり、同じ工房で作られていたことは、例えば、13世紀のカーシャーンで作られたラスター彩のタイルと器が、全く同じ技法を用いており、同質な要素が見いだされることが、それを証明している(注11)。つまり、あるモスクなどの建造に際して、その表面を覆うタイルがある時期に大量に生産された後は、一時的に修復が行われることはあっても、定期的に継続されて注文が出されることは考えられない。そこで、やはり通常は陶器生産を行う工房が、ある一定の期間タイル生産も担当したのではないかと考えられる。また、首都のイスファハーンのように、数十年にわたって、次々と公共建築や宮殿、邸宅などが継続して建てられる場合は、おそらくタイル生産を専門に行う工房があったと考えられるが、ケルマーンの場合、街の規模からすると、同じ工房、もしくは同じ絵付け師が製作に関わったことは十分に想像できることである。以上のように、技法、色彩、モチーフという3点から比較例を総合すると、ケルマーンの白地藍彩のタイルは、中国陶磁器を模倣した17世紀の陶器と共通項が多く、その技法的特徴から、線描を主体とした、極めて絵画的な作品が生み出されたことが指摘できた。ケルマーンのもっとも重要なモスクに、陶器のデザインに倣った、白地にコバルトブルーで彩色されたタイルが設置されたことは、17世紀前半に、この街でいかに下絵付け陶器の生産が活発で、あったかを物語っているのである。3.ヴイクトリア・アンド・アルパート美術館所蔵の陶製水盤縁取り本調査研究では、タイル以外の陶製の建築装飾として、陶製水盤縁取り(no.1498-1876)を調査した。本作例は、1876年に「ニコラ氏jから購入されたと記録にはある
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