ハ同U(8) 2002年の夏期の調査時には、修復作業によって取り除かれ、モスク内の別室に保管されていた。R況がAbbasiを参照のこと。シャルダンは、「もっとも美しいのはファールス地方の首邑シーラーズ−パクトリア地方の首邑マシャド、カラマニ一地方のヤズドとケルマーン、そしてとくにカラマニ一地方のザランドという町で作られる。」と述べている。シャルダン・J、岡田直次訳、『ペルシア見開録j東洋文庫621、平凡社、1997年、p.266.は、1327年(1948/49年)の銘がある。また、上部アーチのモザイク・タイル・パネル下部には1369年(西暦1990/91年)の銘がある。に混じらないように、あらかじめ植物性の顔料で輪郭を描いておき、焼成後に燃えて、乾いた素地が現れることを指している。住宅が倒壊した。その跡は現在でも市内全域にわたって確認できる。これらのタイルは、おそらく倒壊、破損した建物から避難的に運び込まれたものであろう。アハーンのチェヘル・ソトゥーン宮殿伝来と考えられている。附図版に関しては、回CHARD,F., Splendeurs persanes : Manuscrits du X/Ie au XV/Ie siecle, Bib-lioth句uenationale de France, 1977, p. 206, cat. no. 150.“Jeune Fille comptant sur ses doigts" par 0. , Persian Lustre Ware, London, fab巴rand faber, 1985, Chapter 10 Ti!巴s,pp.122目131.(4) タベルニエは、1654年にケルマーンを訪れている。TAVERNIER,J. B., Voyages en Perse et description de ce royaume, P紅is,1930, p. 244. 1666年以降3回にわたってイランに滞在した(5)他の記年銘タイルとしては、主イワーンの向かつて左側のクエルダセカ・タイル・パネル部に(6) クエルダ・セカとは、スペイン語の「乾いた紐」(cu巴rdaseca)が語源で、焼成中に着色利が互い(7) ケルマーン地方は、過去大規模な地震に何度も見舞われ、ケルマーン市内の主要な建築や多くの(9)類例は、ルーブル美術館をはじめ、欧米の美術館に分かれて所蔵されているが、おそらくイスフ(11) 13世紀のカーシャーンのラスター彩陶器及びタイル製作に関しての詳細な研究は、WATSON,
元のページ ../index.html#201