第420窟の窟頂は、従来、四面すべてが法華経変相図といわれており、北面に浬繋が像4体について、大乗浬繋経の四天王とみており、下段の中心部にある9体の坐仏とく場景、棺を茶毘に付す場景は、最初に述べたように賀氏によって浬繋経典類によることが指摘されている。また、左側(西側)半分の図様については同氏によって大乗浬繋経巻一寿命品の「天上諸神と人間の衆生が仏に最後の供養を行うところ」とみる説が提示されている。賀氏はそのうち中段左端の仏に供物を捧げる甲胃を着けた武人水については同経の、大衆が東方意楽美音世界の虚空等如来の神力によって見た九方(すなわち十方の内東方を除く九方)の無量諸仏と、無辺身菩薩が現出した城郭・泉池などの表現と解釈している(注10)。それ以外の場景については、同経との関係は確定していないが、賀説に従うと、この北面は右端部分を除く大部分が大乗浬繋経やその他の浬繋経類に拠ることになり、『法華経』に拠る場景は右側上部の二仏並坐とのその下の五つの場景のみとなる。二仏並坐とその下の場景は、『法華経』普門品本文の最後、三十三応化身の最後の方と観音が無尽意菩薩から理培を布施され、それを二分して釈迦と多宝仏の塔に奉るという場面に当たると考えられる(注11)。ここで注目したいのは、これら普門品の場景と浬繋に関わる場景の聞に山岳が大きな位置を占めていることである。賀氏はこの山岳の頂上が鷲の頭部に似ていることから、これを法華経の舞台である霊鷲山と解するが、この山岳付近に説法する釈尊は描かれておらず、浬繋と観音普門品の聞に霊鷲山をもってくる意図も不明である。ここでは、隣接する東面から連続してきた普門品と北面の中心的画題である浬繋の場景を、内容的に異なるものとして画面の構成上区別するために、山岳を配置したと考えておきたい。つまり、この北面の主体はあくまでも浬繋であり、西面もほぼ大乗浬繋経に拠ることを考えると、窟頂の四面が法華経変でそのごく一部に方便として浬繋があらわされているという従来の見解よりも、北面と西面は浬繋経変であり、南面と東面は法華経変であって、北面の一部に法華経普門品の一部がはみ出しているとみなす方が自然ではないだろうか。おわりにあらわされていることについては、法華経の内容を浬繋経典類に拠って表現したという説が提示されていた。しかし、西面は曇無識訳『大般浬襲経』巻一寿命品の内容に沿っていると考えられ、賀世哲氏が指摘した少数の場景に留まらず、全面的にこの経典に基づいている可能性が大きい。そこで、四面のうち半分の南面・東面は法華経変相図、残りの北面・西面は法華経普門品の残りの場景を除き、浬繋経変相図として描200-
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