鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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彰序⑫ 若〉中の〈最初期の着色画〉、「雪中雄鶏図」をめぐって研究者:宝塚造形芸術大学非常勤講師市川伊藤若沖(1716〜1800)と親交の深かった相国寺の僧・大典顕常(1719〜1802)は、明和3年(1766)、若沖の生前墓碑の銘文「若沖居士寿蔵碕銘」を撰し、1.狩野派の絵師にしたがった初期学習→2.請来絵画を対象とする模写→3.鶏を主とする実物を前にした即物写生、との三段階を経ていた若沖の絵画学習について触れた(注1)。若沖画の様式変遷にこの三段階を整然と当てはめることには無理があろう。だが、若沖がこの三つを真塾に遂行していたことは信じられる。はたして、それぞれはいかに実際の絵画製作と絡みあうのだろうか。本稿は、とくに第一と第三の段階を念頭に若沖の初期作品(注2)を分析し、いまなお私たちの眼に魅力をもって訴えかける若沖画の性質を検討する試みである。本稿が取り上げるのは、京都・細見美術館に蔵される「雪中雄鶏図」〔図1〕。考察の焦点は、「雪中雄鶏図Jの画面がいかに生成しているか、との問題に結ばれる。若沖が製作にあたって倣い、画面の生成に影響を与えた先行作例を措定し、それらとの比較検討によって画面を分析していきたい。最初期の着色画である本図に対しては、後年の「動植綜絵」(東京・宮内庁三の丸尚蔵館蔵)に看取される「充填性」「繁辱」と形容される若沖画様式につながっていく萌芽すら感じられる。このような印象は、画面のいかなるところに誘発されるのか。この単純とも言える一つの疑問が本稿の出発点である。1 〈最初期の作例〉としての位置づけ、および既出の見解「雪中雄鶏図」は紙本着色、114.2×61.9cmの一幅。左側中ほど「景和Jとの落款が記され、白文方印「藤汝鈎字景和」、朱丈方印「優哉亭図書」の二印を捺す。本図は若沖の最初期の着色画として位置づけられ、同じく「景和」落款、同じ二印を捺す「葡萄図」〔図2〕(カリフォルニア・心遠館コレクション蔵)とごく近い時期の製作とされる。具体的には、宝暦2年(1752)の「松樹番鶏図」(『園華』129号所載)に先がけ、三十代中期以前、若沖が錦小路高倉の青物問屋「桝源」の主人であった時期の作例である(注3)。本図に描かれた竹・菊・雪は伝統的に鶏とともに描かれてきた。「竹に鶏」という組み合わせは、宋末元初の僧・羅窓筆「竹鶏図J〔図3〕(東京国立博物館蔵)などに、204

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