また「菊に鶏」は沈周(1427〜1509)筆「菊花丈禽図」(大阪市立美術館蔵)や、熊斐(1712〜1772)筆「花鳥図J押絵貼扉風(愛知・徳川美術館蔵)のうち「菊に鶏図」〔図4〕などによって確認される。さらに「雪と鶏Jは、京都・桂離宮古書院障壁画のうち伝狩野元信(1476〜1559)筆「雪中竹に鶏図」襖にも確認できる。このような組み合わせを鑑み、佐藤康宏氏は羅窓筆「竹鶏図」を引き合いに、鶏が文・武・友・仁・信の「五徳」を備えた存在であったことを指摘し、本図において竹や菊という「君子の象徴」と描かれる雄鶏を「世俗を離れ、風雪に耐え、ひとり自己の信じる道を追求する求道者」として読む。さらに、雄鶏が若沖自身と重なり合う「冷たく虚ろで不安な現実のただなかで、自らの生きる糧を得ょうとする画家の姿Jとして捉える(注4)。若沖にとって鶏とは、単に描写対象であることを超えた愛着すべき存在であったろう。若沖が鶏に特別な思い入れをこめて描いたことは想像に難くない。しかし、本稿はこのような解釈には踏み込まない。図像学的な解釈を提示することが本稿の期すところではなく、そのような試みが過度となれば、画家が腐心して画面に定着させた表現を等閑視してしまいかねない。次節以降、表現そのものをつぶさに注視することから考察を始めよう。2 「狩野派」学習から得られたもの一天球院「竹鶏図Jを例にして一「雪中雄鶏図」は、胡粉・緑青・朱などの良質の顔料が用いられ、色感豊かな画面を呈する。雪の降り止んだあと、生い茂る竹林のなか、水際の土壌のうえで一羽の雄鶏が餌をついばむ。かなりの豪雪だ、ったのだろう、地面や竹の葉叢、菊には雪が垂れ落ちんばかりに積もる。竹の節をもつぶさんとする雪の重量感を誇示するためか、右側からは竹が不可解な屈折を見せ、交差して伸張し大量の雪を載せる。左奥には緩やかに傾ぐ土披が重ねられ、さらに竹を生じている。下方、谷聞をへだてて雪の重みに任せて弧を描く菊を抱いた土壌が配される。雪をたっぷりと載せる竹や菊、土坂に固まれて、尾羽を高く掲げて体を前に倒し、頚を伸ばして餌をついばむ一羽の雄鶏がいる。大典「若沖居士寿蔵碕銘」は若沖画を[一事ノ踏襲無シJと評していたが、すべての表現が若沖の意想、にかかるとも思われず、やはり何らかの先行作例からの影響を想定したい。若沖が請来絵画の模写作品を製作している事実(注5)からも、本図にも「原本」と呼ぴうる作品を想いたくもなるが、未だ明らかではない。だが、竹と雄鶏の図様に限ってみれば、参照すべき先行作例が存在する。寛永8年(1631)頃、狩野山楽(1559〜1635)・山雪(1589〜1651)らによって制作された京都・妙心寺天球院方丈障壁画(京都・妙心寺天球院蔵)のうち「竹鶏図j杉戸絵〔図5〕である。205
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