「竹鶏図J杉戸絵は、右面に紅葉した蔦を絡ませて垂直に伸び上がる竹を右方に配し、下方に一羽の雛とともに餌をついばもうとする雄鶏を、左面には四羽の雛を足下にしたがえ、子どもを守るかのようにあたりを見まわす雌鶏を描く。雌雄の鶏に五羽の雛を配するのは、「教五子jという画題に基づく(注6)。そのような吉祥的な寓意をも踏まえ、「竹鶏図」杉戸絵の絵師が腐心したのは、竹林のもとの広がりある空間のなかでの、鶏親子の心温まる情景を描き出すことであったろう。杉戸に鶏を描くことは、「慕帰絵詞」(京都・西本願寺蔵)のうち、文明14年(1482)に藤原久信が補作した巻ー第三段の画中画「柳に鶏図J〔図6〕に見られ、また天球院「竹鶏図」と類する、慶長19年(1614)、狩野貞信(1597〜1623)と狩野光信(1561/65〜1607)の門弟による名古屋城表書院障壁画(名古屋城管理事務所蔵)のうち西廊下「竹鶏図」杉戸絵〔図7〕などを挙げうる。若沖画に狩野派絵画からの影響を多く求めることは難しいが、「雪中雄鶏図」の菊葉を縁取る肥痩線にも狩野派学習の名残が指摘され、また宝暦3〜4年(1753〜4)頃の製作とされる「梅鷹図」〔図8〕(大阪・個人蔵)の鷹の図様に関し、西本願寺大谷家伝来の狩野山楽筆「鷲鳥図j扉風(滋賀・個人蔵)の右隻の一羽〔図9〕を写したことが指摘されている(注7)。天球院と若沖をつなぐ経路を文献などで辿ることはできないが、若沖が狩野派の絵師に従って絵画学習を始めたこと、そして同じ京都という地理的な便などを鑑みれば、天球院「竹鶏図」あるいは類似の図様をもっ先行作例に接した可能性は十分に認められる。若沖は狩野派学習から離れて請来絵画の模写に移行するが、その移行は、狩野派との断絶の意志によるのではなかったのだろう。むしろ、模写を通じて好ましきかたちを奪うという、絵画製作の「材」の渉猟の視野に狩野派の絵画が組み込まれていったことを示すと思われる。さて、「雪中雄鶏図jと天球院「竹鶏図」右面との比較を試みよう。まず、前景において右方に竹を、中央下部に側面観の雄鶏を配する構成においては、「雪中雄鶏図」は天球院「竹鶏図」の図様と共通する。だが、この類似はさらなる差異に凌駕される。注目すべきは、画面に対する描写対象の大小の比率における大幅な変容だろう。天球院「竹鶏図jは、竹の葉叢と雄鶏のあいだに相当の距離がとられ、そのあいだの余白は、まっすぐに伸びる竹の高さや左方に広がる奥深い空間を観者に仮想させるものとして機能する。一方、若J中「雪中雄鶏図」は、雪持ちの竹の葉叢や雄鶏を画面に対してより大きく配し、最前景を支配させる。また、後景の描出とともに、竹の高さや空間の奥深い広がりを示そうとする意識は希薄である。竹の葉叢と雄鶏のあいだには距206
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