鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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大な影響を与える。黄葉僧・鶴亭(1722〜85)が延享4年(1747)に大坂に来て南頚画風を伝えたことを象徴的な契機とし、また若沖のはじめの師とも伝えられる大岡春卜(1680〜1763)もその功績の一翼を担う。春卜『画史会要』(寛延4年(1751)刊)巻三「明清部」には、「南頭筆jとの挿図が載り、南頚画そのものが早い時期から知られていたことが判る。そして、熊斐や来舶画人・宋紫岩(?〜1760)に学び、江戸に南頚画風を広めた宋紫石(1715〜1786)筆「柳下白鶏図」〔図12〕(明和6年(1769)、広島県立美術館蔵)などからすると、南頚が毛描きなどの細密描写を駆使して鶏画を制作していたことも想像される。結論を先取りすれば、宋紫石に継承された南頚画風と若沖「雪中雄鶏図jとの差異は、大気表現への指向の有無、そして立体感の方向性などに求められる。宋紫石「柳下白鶏図jは、白鶏を彩る胡粉の彩度を抑え、周囲に刷かれた墨の色調と融合させて白鶏を取り巻く明け方の湿潤な大気をも表す。対して、若沖「雪中雄鶏図jは、顔料の彩度を落さず、むしろ顔料自体、それらの衝突が紡ぐ美麗さを強調する。この意味では、素地のままに残された土披表現には、雄鶏が誇る美しさを浮き立たせる「地」としての機能が付与される。観者の眼がより重きを置くのは、雄鶏を載せる場所としての士披であること以上に、色と色との対比の妙を構成する色面としてである。また宋紫石「柳下白鶏図jは、大気表現の手法の帰結としても、白鶏の姿は画面のなかに構築された空間の内部に捉えられる。だが、若沖「雪中雄鶏図」においては、雄鶏の姿は画面空間の内部に収まるというよりも、絵画平面から盛り上がる方向性にあり、雄鶏の姿は「飛び出る絵本」のように観者の眼に迫る。さらに、一羽の雄鶏の姿と同時に、それを構成する文様の集積が私たちの眼にどっと流れ込んでくるのだ。若沖画の最初期の作例「雪中雄鶏図」には、広がりや奥行きのある空間表現、また充満する大気表現を希求する方向性は薄弱である。竹の葉叢に載ったきらびやかな、ねっとりとした積雪や、雄鶏における美麗なる文様の集積を第一義に示す。先行作例から引かれた図様を大幅に変容させ、また、多方向に向けられた絵画学習から得られたものを、過剰なまでに画面に盛り込んでいく。画面に対するその瞬間には、すでに個々の描写対象が背景にもつ文学的な典拠に想、いを馳せる気力はそがれ、観者の至福となるのは、視覚を瞬間的に射る画面に充填された顔料自体の鮮やかな美しさを有する色そのもの、そしてそれらの対比・衝突によって紡がれる微細なる文様表現や質感表現にうっとりと耽溺することなのだ。4 結びにかえて-209-

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