鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
220/592

注(2)本稿は先学にならい、「動植総絵J制作以前の作品を初期の着色画と考える。辻惟雄『若沖』美術出版社、1974年、佐藤康宏『日本の美術256伊藤若沖』至文堂、1987年、狩野博幸『伊藤若沖1紫紅社、1993年、京都国立博物館編『伊藤若沖大全』小学館、2002年ほか。(3) 若沖が次弟・宗巌(白歳)に家督を譲るのは宝暦五年(1755)、四十歳のときである。(4)佐藤康宏「雪中雄鶏図解説」「新編名宝日本の美術27若沖・粛白J小学館、1991年(5)佐藤康宏「若沖における模写の意義」『MUSEUM.I364、東京国立博物館、1981年ほか。(6)榊原悟「双鶏養雛図南化玄興賛曾我直庵筆解説」『妙心寺隣華院展長谷川等伯と襖絵J、サントリー美術館、1981年、市川彰「伊藤若沖の鶏」『茶道雑誌J第61巻第1号、河原書店、(7)伊藤紫織「雪中雄鶏図解説」『珠玉の日本美術細見コレクシヨンの全貌と、ボストン、クリーブランド、サックラーの話題作J、千葉市美術館、1996年、前掲佐藤康宏「新編名宝日本の美術27 若J中・粛白J。(8)前掲伊藤紫織「雪中雄鶏図解説J、狩野博幸「雪中雄鶏図解説」前掲狩野博幸『伊藤若沖』、前掲(9) 前掲佐藤康宏『日本の美術256伊藤若沖』。( 1) 大典「若i中居士寿蔵砲銘」は細部の字句が加除されて安永4年(1775)刊の「小雲棲稿』に再録。以上、若沖の最初期の着色画である「雪中雄鶏図」を検討してきたが、多くを語り得なかった。とくに、「ほぼ同様の制作意図であるものの、印象ははなはだ相違する」(注10)、「雪梅雄鶏図J(京都・建仁寺両足院蔵)とともにかたちの移植を統合する日紀様式の受容の問題も含めて検討するべきであったが果たせなかった。後考としたい。加えて、若沖画の検討の際、比較対象を絵画に限ることへの疑問も残る。今後は、友禅染や蒔絵など様々な工芸分野の諸作や雛形本の挿図などとの比較検討をも視野に入れるべきであろう。本稿は京都大学附属図書館本『小雲棲稿』を底本とした。1997年ほか。佐藤康宏「雪中雄鶏図解説」。同狩野博幸「雪梅雄鶏図解説」前掲狩野博幸「伊藤若沖』参照。210

元のページ  ../index.html#220

このブックを見る