うした植物の折枝が季節という垣根を越えて取り合わせられている。折枝散らし文の文様構成は、永続する幸福を願うものではないだろうか。なお、折枝散らし文の早い作例の中には、宝相華や瑞花などの季節とは関わりない植物が混在するものがある。こうした空想上、理想の花は、異国的なイメージを内抱しており、しばしばそれは、吉祥性に読みかえられて愛好された。空想の植物も、身近な植物の四季の折枝も、共に吉祥という装飾理由のもと散らし構図上に避遁している。つづいて平家納経でのモチーフとなる植物種は計5巻に10種を数える。計10種のう目される。なお秋以外の季節を示す、梅や桜の花・橘の果実が装飾されるのが、提婆品の本紙と紙背である。提婆品の装飾バリエーションは、折枝散らし文や葦手絵・山水面の下絵など一紙ごとに展開し、全紙で四季を構成しているといわれている。つまり折枝散らし文の文様構成において、かろうじて四季を暗示させるのは、提婆品のみに見られる特徴であり、他の巻の折枝散らし文は秋に特化された構成となっている。この他の12世紀後半の作例においてもほとんどの場合、折枝の植物を一種類に絞るか、季節をひとつに限っている。つまりここでは隆盛期の折枝散らし文に見られた四季を暗示する植物の組み合わせが、平家納経をはじめ12世紀後期の諸作例において、もはや重視される要因ではなかった。折枝散らし文の装飾は現存作例では11世紀後期より遡れない。そこで、文字資料より折枝の文様を探ると、10世紀後半より歌合の風流に用いられたことが確認される。まず(イ)天徳4年(960)に行われた内裏歌合では、左右の洲浜の覆いに折枝の刺繍が施されている。左方では、蘇芳色の村濃の花文綾に藤の折枝と葦手による古歌五首を刺繍したものであり、右方では青裾濃の花文綾に柳の折枝を刺繍したものであった。続いて、(ニ)長元8年(1035)関白左大臣頼通歌合では、左方の洲浜の打敷に杜若色(紫)に染めた三重の浮線綾に葦手や花の折枝を刺繍したものが使用された。また(チ)永承5うに歌合において、洲浜の風流に折枝が用いられていたことが分かる。それと平行して、広義の装束においても折枝の刺繍や織物が見られる。歌合ばかりでなく裳着や新堂供養、五節舞など慶事の装束を、折枝の文様が飾っていたことを、史料は伝える。例えばい)治安3年(1023)の禎子内親王の裳着では、しつらえに「藤の末濃の織物の御九帳に、折枝」を刺繍したものを用いたことが、長元9年(1036)章子内親王裳着ち7種までが秋の草花であり、計5巻のうち4巻が秋の植物に限定していることに注3 文字資料にみる折枝年(1050)麗景殿女御歌合では、打敷に卯花を刺繍したものが用いられた。以上のよ-217-
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