では梅の折枝を施した御帳を用いたことなどが「栄花物語」に描写されており、折枝の文様がやはり慶事に際してあらわされる装飾であったことが確認される。この折枝としばしば併せて装飾される葦手が、賀歌を書くための吉祥文字であることも、その傍証となろう。このように10世紀後半から11世紀初頭にみられる折枝の文様は、吉祥の性格を持つものであった。次にモチーフに注目すればいずれも身近な花樹であり、1種類を選んでいる。春の終わり3月30日に行われた(イ)の天徳4年内裏歌合では藤花と柳、4月26日に行われた(チ)永承5年麗景殿女御延子歌合では卯花が刺繍されるなど、それぞれの季節に相応しい花である。こうした行事の時性と呼応する植物種の折枝の使用は、装束に施される折枝の場合も同様である。なお法華人講・三十講などの法会における捧物でも(ヲ)「落窪物語J巻之三では秋8月21日の八講で、捧物として五葉(の松)の枝や女郎花が登場し、(ワ)土御門殿三十講では寛弘5年5月5日の五巻の日の捧物に「銀の菖蒲に薬玉」を結んだものがみられ、季節に相応しい枝が選ばれている。以上のように10世紀後半から11世紀前半にかけて折枝の文様は、慶賀に際して用いられた装飾にみられ、行事の実施される日時に即した植物モチーフが選ばれたものであった。現存作例の中には白河天皇の六十賀に際しての贈り物であるとされる三十六人家集や、神宝として奉納された扇や琴箱など多くに慶事に際する装飾としての性格が読みとれる。しかし、折枝文様のモチーフ種という点で、明らかに異なる。11世紀の作である堺色紙や施福寺経に、すでに季節の異なる折枝の取り合わせがみられ、特に佐太神社の彩絵檎扇には一画面に春秋の折枝を集めた文様構成の発想、が明確に打ち出されている。こうした四季を暗示する複数種の折枝を散らす構成は、その後三十六人家集や片輪車蒔絵螺鋼手箱に引き継がれていく。平安時代の折枝散らし文は、身近な植物の折枝をモチーフとする点で一貫しているものの、わずか100年強という短い時間のなかで、文様の構成や形態を大きく変化させていた。文字資料より確認した初発期の折枝散らし文は、歌合の風流や晴の日の装束など、吉事の装飾として用いられており、もとはその季節の植物の生命力を身につけようとする、感染呪術より生じたことが推測される。手折られた植物折枝というモチーフは人為的であるため、言祝ぎを志向する感情を強く自に訴え、また身近な植物であるため現実的である。隆盛期の折枝散らし文の特徴である形態が枝振りを重視する傾向は、こうした感染呪術的な発想が根幹にあることと無関係ではあるまい。また4 現在までの結論と今後の研究の方向
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