で姫君たちが手元において楽しむための道具であったようである。さらに、冷泉家に伝来する「太鼓蒔絵香合J(注26)は、円形太鼓形の合子の中に、円形盆を収め、その下に銀製摘みのついた板を落とし込み、扇形の合子を三つ乗せる構造で、個々の部品の形状、蒔絵の意匠、全体の構成のどれもが、前章の輸出漆器に通じる。この作品は外箱の墨書から、寛保二年(1742)に七代将軍家継の生母である月光院から冷泉家に贈られた「香合jであることが知られる。十八世紀半ばに、武家のみならず公家においてもこのような香箱が用いられたことを伝える貴重な資料である。このように江戸時代中期に輸出された蒔絵の小箱類が作られた背景には、香道が新しい道楽として飛躍的な発展を遂げつつあった事実があることを、国内の伝世品からも確認することができる。当時の京都の地誌類をめくると、同時期に成立した海外のコレクションに見出される日本の工芸品が、町中で売られていた様子を知ることができる(注27)。スウェーデン王室コレクションに含まれ、1777年の目録に記載されている白塗りの文庫(注28)は、胡粉様の地塗りに木目込みで花束を表した箱で、底面に「京四条通小橋町/藤屋三郎兵衛jの朱丈方印を木版で、摺った札が貼られている。元禄三年(1690)の『人倫訓蒙図嚢j(注29)に描かれた衣装人形を作る職人の仕事場には、ちょうどこのような箱が完成品として置かれている。実際、貞享二年(1685)の『京羽二重』巻六(注30)では「衣装人形御所丈庫」の項にまさに「藤や三郎兵衛」の名がある。元禄十年(1697)の『国花万葉記』(注31)にも「衣装人形並びに御所文庫/藤屋三郎兵衛四条かはら町」の記載があり住所も一致する(注32)。勝盛典子氏によれば(注33)、三井家文書の中に「衣装文庫」が漆塗りの箱により安価で輸出された記録があるそうだが、その「衣装文庫」とは衣装人形の職人が作る「御所文庫jを指すのではないだろうか。そうであれば、町中で売られていたこと、貿易商によって輸出品目に選ばれたこと、ヨーロッパの王族の手に渡ったことが、それぞれ同時代の資料から確認できる興味深い事例である。ところで、『人倫訓蒙図嚢』に示された「張子師」の商品(注34)もヨーロッパに伝わっている。先のデンマーク王室コレクションに含まれ、1674年、1689年、1690年といった十七世紀末の収蔵品目録の項目と一致する、張子の鳥、鳥形、蝶形、員形、軍配団扇形、香包形の小箱である(注35)。第3章貿易商が選んだ町中の商品の例239
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