鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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張子の小箱や京都製の御所文庫が、蒔絵の棚や小箱類とともに欧州の王室コレクシヨンに収まっている状況から、蒔絵の小箱類も、輸出用の注文生産ばかりでなく、市場生産による製品が輸出に当てられた場合も多かったろうことが想像される。そのような理解で再び京都の地誌類を眺めてみると、まず、寛文五年(1665年)の険制正親町通(中立売通)の項に「かうくや/巳固薬/はりま」の看板を出した「きくすりや」(生薬屋)の図が見いだされる(注36)。これは延宝六年(1678)の『京雀跡追』(注37)や貞享三年(1686)の『羅州府志』巻六土産門上「香具」の項(注38)で解説されている香具屋で、薬、香の原料、調合した香、匂い袋などを売る店であったようだ。しかし、先の貞享二年(1685)の『京羽二重』では「香具所Jに「香炉灰屋」「十位香道具師」「香盤師」「金銀香敷茶碗幅輪」が加わり(注39)、明らかに香道具に関わる職人たちが分化して活躍していたことがわかる。さらに、元禄二年(1689)の『京羽二重織留』には五軒の「香具屋J(注40)、宝永三年(1705)の『京羽二重』の諸職名匠には四軒の「香具所」(注41)、宝暦四年(1754)の『新益京羽二重織留大全』には二軒の「香具屋J(注42)が収録されており、町中に香や香道具を商う店が並んでいたことがわかる。香道が隆盛を極め、町に香道具店が並び\海外のコレクションにその香道具が見いだされるとしたら、御所文庫や張子などの例と同じく、恐らくは、いわゆる小間物商が、輸出に向きそうな商品を香道具店でも見繕って、長崎方面へ持っていった、と考えるのが自然ではなかろうか(注43)。そうであればこそ、同じ工房で製作されたと考えられる品が、マリー・アントワネット、清朝皇帝、イギリス貴族、日本の尾張徳川家、その他一般のコレクション〔図3〕に同時に見いだされるのである。第4章文献資料を伴う輸出された十姓香道具の例では、香道具の発展の最終形式とも言え、遅くとも貞享二年(1685)には確実に専門店で扱われていた十娃香道具が、輸出用に選ばれた例はないだろうか。米国・セーラム、ピーボディ・エセックス博物館蔵の十位香箱(注44)やドイツ・ゴー夕、フリーデンシュタイン城博物館蔵の十位香箱(注45)は、どちらも恐らくこの時期に製作された作品であるが、残念ながら海外に渡った年代が不明である。また、デンマーク王室コレクションやボストン美術館に収蔵される十位香箱は幕末期の作と考えられる。マリー・アントワネットの香炉を伴う香箪笥は、いかにも十位香道具風ではあるが、内容品を伴ったという記録がなく、これだけでは香道具店の商品と言い切るわけにはいかない。240

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