れる。南部家旧蔵の宗祇像(国立歴史民俗博物館所蔵。以下、南部本という。)と相良家旧蔵の宗祇像(所在不明。以下、相良本という。注3)は、いずれも墨染の法衣に掛絡を着け、扇を持って上畳に正座する姿をとる。同じ紙形が使われたと見られる相貌は、細微な筆線によって描写され、いかにも寿像と思わせる迫真性を備える。これらの制作年等については、未だ定説を見ていないが、賛と伝来の2点に注目すると、両者の共通点が浮かび上がる。南部本は、上部の色紙形に、歌「うつしをくも我かげながら世のうきをしらぬおきなぞうらやまれぬる」(A)、発句「老木にもさかすやこ、ろ花もかなJ(B)、付句「雲なき月のあかつきの空/さ夜まくら時雨も風もゆめ覚めて」(C)が記され、「見外老人肖像、依彼厳命書所詠之佳作而己、亜塊下拾遺藤(花押)」と署名されている。署名は三条西実隆のものに相違なく、花押もまたそれを証明している。歌や句は、「依彼厳命Jとあるとおり、宗祇の意志で選択されたものであるが、(A)を除くと、他の宗祇像には見られず、南部本に独自の基準で選ばれている。(B)句の調書にある「草庵」と(C)句の季節である「冬」が、選択の根拠を知る手がかりとなろう。南部本は、宗祇から直接与えられたものとして南部家に伝来したが、これは、事実を伝えると考えられる。宗祇から画像を与えられた可能性のある人物が南部家にいるためである。『新撰蒐玖波集』に入集している「慶卜法師」と「源経之Jの両名は、「奥州南部」の者という(注4)。このうち慶卜法師は、明応4年正月6日の「新撰蒐玖波集祈念百韻」に参加している(注5)。こうしたことから慶トは、『新撰蒐玖波集』への入集を果たすことを目的に、南部家から派遣された人物と考えられ、南部本と宗祇の接点も、この慶卜にあると推測されるのである。先の賛の「草庵」「冬」というキーワードが、慶卜と宗祇の交流が行われた場所や季節と符合する点も、それを裏付ける。とすれば、南部本の制作時期は、明応4年正月前後に位置づけられる。一方、相良本の賛には、南部本の(A)と同じ歌だけが記されている。署名はないものの、南部本と同様、実隆が書いたものと考えられている(注6)。原本の所在がわからないため写真のみによる比較であるが、その推測は妥当なものと判断される。相良本の添幅として伝来した宗祇自筆の書状の存在(注7)により、本図もやはり『新撰蒐玖波集Jと密接な関係にあることがわかる。この書状は相良義続へ宛てたもので、内容は、宗祇から『新撰蒐玖波集』編纂の話が伝えられた義続が、自作句の入集を望んで句集を宗祇へ送り、その中から秀句を撰んでもらうよう依頼したことに対する返信である。書状の日付(4月13日)は、句集の奥書の日付から、明応4年と判明250
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