鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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する。書状と画像が一対のものとして伝来している点を重視すれば、画像も明応4年にもたらされたと考えるのが妥当であろう。書状の書かれる4日前、『実隆公記』明応4年4月9日条には「宗祇法師肖像讃染筆了jと見え、実隆が相良本へ染筆した時期との関連も想起される。以上、寿像には次のような共通点がある。制作時期が明応3年から4年頃に集中していること、現存作品は『新撰蒐玖波集』への入集を働きかけた大名の家に伝来したこと、『新撰蒐玖波集』編集の中心にいた実隆がいずれにも関与していること。つまり、上畳に正座する姿の寿像は、『新撰蒐玖波集』と連動し、実隆と宗祇の三人が関与して作られたものと考えられる。正座像は、宗祇の没後もなお制作されたことが、山口県立歴史博物館所蔵本等から確認される。これらには、「自影」の歌(A)、宗祇の代表作である発句「世にふるもさらに時雨のやどりかなJ、そして宗長筆『宗祇終鷲記』に宗祇辞世の句として所収される付句「としのわたりはゆく人もなし/老いのなみいくかへりせははてならむjの三つが、実隆流の筆で色紙形に記されている。『宗祇終鷲記Jは宗長が実隆に宛てて書き送ったものであり、また寿像と同じ紙形が使用されていることから、これらの祖本は、宗祇の正式な遺像として実隆の周辺で制作された可能性が高い。前節で正座像について概観したが、これらとまったく別系統と見られる宗祇像が存在する。景徐周麟の詩文集『翰林萌藍集』所収の「種玉宗祇蓄主肖像賛J(注8)の宗祇像(以下、翰林萌藍集本という。)、実隆の詩歌集『再昌草』所収の「宗祇法師影賛J(注9)の宗祇像(以下、再昌草本という。)である。まず、翰林萌董集本は、『実隆公記』の永正4年(1507)5月13日条から6月15日条にかけて記載されている宗祇像そのものである。制作の古い順に並べられている『翰林萌藍集』の配置から、これは証明される。記録によれば、5月13日、宗碩が美濃へ下向する暇乞いに実隆のもとを訪れたので、宗祇像の賛のことについて、景徐周麟に依頼することを「示した」ところ、宗碩は宗祇像を実隆に預け置いて帰った。翌月13日に、書首座が景徐周麟の草案を持ってきた。実隆は、早速清書するように伝えた。15日になって、賛が清書された宗祇像が届いた、というのがその経緯である。宗碩(1474〜1533)は、宗祇最晩年の弟子で、宗祇と同様に生涯各地を旅行し、最期は山口で客死した。さて、翰林萌藍集本は宗碩の所有品であったが、大永4年(1534)6月上旬に実隆2 騎馬の宗祇像-251-

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