鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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の書いた再昌草本の賛にも、宗碩の求めに応じたことが記されていることから、双方とも宗碩が所有する画像であり、かつ漢文の賛を伴っていたという点で共通する。そこで、それぞれ具体的にどのような画像であったのか、図像の復元を試みる。「種玉宗祇巷主肖像賛」においては、宗祇の人物像を杜甫、買島、黄山谷らに比して称揚していること、そして、このうち杜甫と買島の二人までが、瑞渓周鳳の「童瞳賛井政」(『臥雲藁』所収、注10)に述べられているように、騎櫨の詩人として著名な人物であることが注目される。例えば、買島は、月舟寿桂の「賛買島」(『幻雲詩嚢』所収、注11)などから、「吟髭雪白一櫨背」といったイメージで捉えられていたことが知られ、これらからボストン本の宗祇の姿を想起するのは難しくない。一方、ボストン本の宗祇が、社甫、蘇東域等の中国のいわゆる「漂泊の詩人」に重ね合わされていることは、被っている笠が、東坂笠履図や騎瞳図などに描かれる笠と同じことから明らかであり、宗祇が中国の漂泊の詩人に擬されているという点でも共通している。すなわち、翰林萌藍集本の図像は、ボストン本と同系統であったと推測される。また、「宗祇法師影賛」は、前半部分が「旅Jを、後半部分が「髭」を主題とする。「旅」に言及する点は、画像が「旅」が目に見える形で描き出すものであった可能性を示し、再昌草本も、ボストン本と同系統の騎馬の宗祇像であったと考えてよいだ、ろう。「雨笠畑蓑」という句が用いられる点も、ボストン本のように笠をかぶる姿の宗祇像であれば自然である。ボストン本には、少なくとも翰林萌草集本、再昌草本という同系統の画像があった。このうち、永正4年に制作された翰林萌董集本は、制作時期がもっとも古く、その後の規範となるものであったといってよい。翰林萌童集本は宗碩の所有品であったが、これが作られた当時、宗碩はまだ駆け出しであって、ボストン本のような本格的な画像を作り、高僧である景徐周麟に賛を依頼することが、独力で可能で、あったとは思えない。その証拠に、賛者の人選は、賛を景徐周麟に依頼すると「示した」実隆によって、またその後の校正も、まったく実隆の一存で行われている。明らかに、宗碩の意向に関わりなく実隆の意志によって着賛作業は進められており、当然画像の制作そのものも実隆の相当な関与のもとに進められたと推察される。では、なぜ実隆は宗碩に対して、そのような協力をする必要があったのであろうか。宗碩以前に、連歌師が地方の大名と公家との仲介役を果たした例として、宗祇がいる。実隆の染筆した写本や外題を地方の有力者へ届け、その返札として金品を実隆にもたらしていた事実は、『実隆公記』をひもとけば、枚挙にいとまがない(注12)。そ252

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