して、宗碩は、宗祇の弟子の中でも、特に実隆への便宜を図った回数が多く、宗祇の役割を継承した人物といえよう。以上のような実隆、宗紙、宗碩の三者の関係を前提として、実隆が宗碩の宗祇像制作に協力している理由を考えれば、実隆の目的は明瞭である。実隆は、宗祇が没したことにより、自身と地方の大名や豪族との連絡、交渉を仲立ちしてくれる人物を失い、その役割を継承する人物として、弟子の宗碩に白羽の矢を立てたのである。とすれば、実隆から宗碩へ渡る宗祇の画像が、馬に乗る旅の姿に表された理由も理解される。それにより、宗祇の後継者として担うべき役割を明確に示すことができたためである。一方、宗祇最晩年の弟子で、『新撰蒐玖波集Jとは関わりがなかった宗碩にとってみれば、その撰集を背景として成立した正座像よりも、独自の新たな宗祇像の方に魅力を感じたとしても不思議はない。宗祇が騎馬の姿に表されることには、少なくとも三重の意味が含まれている。lつは、各地を旅して連歌を広めた宗祇としての姿を表したもの、lつは、中国の漂泊の詩人に擬された宗祇としての姿を表したもの、1つは、各地の大名や豪族を訪ね、実隆ら公家との仲介者の役割を担った宗祇としての姿を表したものである。しかし、これらだけでは、まだ出陣影と同じ形式であることの理由として十分とは言えない。例えば、中国の漂泊の詩人に擬した姿に表すのであれば、「騎櫨」つまり騎馬に乗る姿に表した方がより相応しい。にもかかわらず、実際には、出陣影と見紛うような騎馬の姿に描かれているのはなぜか。15世紀後半から16世紀にわたる時期の出陣影の流行については、主に義尚以前と義尚以降に二分して考える必要がある。それぞれの時期の記録を、出陣影制作の事実としてではなく、その閲覧者が、それらをどのように理解し、位置づけているかという観点から分析すれば、出陣影の位置づけが変化していることは明らかであるからだ。義尚以前の時期というのは、洛中等持寺に所蔵される足利尊氏出陣影が「発見」された時期にあたる。尊氏出陣影の存在が確認される最古の史料は、寛正4年(1463)(注目)であり、没後100年以上の問、出陣影への言及はまったく見られない。このことから、等持寺の尊氏出陣影は寛正頃に「発見」され、一部の知識階層の興味をヲ|いたと思われる。この時期において、尊氏出陣影は、単に尊氏像の一種という認識であった。『碧山日録』によれば、太極が「将箪尊氏甲胃之像朝衣之像」を閲覧できたのは、「以前からそ3 出陣影と騎馬の宗祇像-253-
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