2つ目は、文武を兼帯することへの熱望である。これは決して義尚に特殊なものでれを見たいと願って」いたためとあり、単純な興味から閲覧を求め、それが許されたという事実が確認される。一方、文正元年(1466)の足利義政による「等持院殿御出陣御尊像」の閲覧も(注14)、御成のついでに行われたものであり、特別な扱いは受けていない。季項真薬の「尤其筆被美之」という感想も、関心が造形的な面のみにあったことを示す。ところで、義尚出陣影の制作は、後に足利義材から「此甲胃之儀、首家相違之様子J(注15)と指摘を受けるなど、歴代将軍の前例に拠らないものであった。このような特殊な画像が制作された要因は、義尚個人によって等持寺の尊氏出陣影が特別視されたことにあったと考えられる。義尚以降で出陣影の位置づけが変わる所以である。義尚による尊氏出陣影の閲覧は2回に及び、しかも小川御所へ召し寄せるという形で行われている。義尚の関心が義政より高かったことは間違いない。1回目の記録は、文明10年(注16)、2回目は、同17年である(注17)。文明10年の記録に具足や馬について詳述されている点、文明17年の記録に、対とされていた束帯像に「和歌賛jがあると書かれている点などから、注意深く画像を観察し、その意味を理解しようとした義尚の姿勢をうかがうことができる。義尚のこの行動は、2つの点から説明することが可能である。lつ目は、画像への高い関心である。例えば、文明14年に、近衛家の「家門代々御影」の一覧を依頼し(注18)、同16年に、東福寺の九条道家像を狩野正信に模写させ(注19)、同17年に、「代々の御ゑい」(御寝影)を禁裏から借り出している(注20)。他にも、同16年に、夢想を発端に、狩野正信に描かせた京極良経の画像を本尊とする影供歌会を主催している(注21)。はないが、彼の場合、文武兼帯が、応仁・文明の乱以後失われつつあった秩序を回復し、将軍を中心とする幕府権威を向上させると信じていたふしがある。文明16年に義尚が奉納した「夏日陪多田院廟前詠五十首和歌」の願文には、文武両道にその名高くありたいこと、奉納した和歌が神の心を動かすならば、国家を安んずる力を与えられるであろうことが述べられている。実際、前年より始められていた打開集の編纂作業は、尊氏以来将軍家の執奏によることが嘉例となっていたものの、義政の代に途絶えていた勅撰集の撰集作業を、義尚自身の手で行おうとしたものであった。また、長享元年の近江出陣は、自身の権力基盤強化等の要因がヲ|き金となったにせよ(注22)、義兵をおこして諸大名を屈服させた歴代将軍への憧憶が出征へと駆り立てたことは間違いない(注23)。単なる文飾としての文武兼帯にとどまらない執着が義尚にあったこと-254-
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