は、これらの行動から明らかなのである。とすれば、甲胃像と和歌賛を伴う束帯像がl対となっている尊氏像が、義尚の目に、文武兼帯を象徴する画像として映ったとしても当然である。以上のように、尊氏出陣影は、いわば義尚の理想とするところを具現化したものとして、特別な扱いを受けた。その傾向は、幕府関係者の聞にも広まっていたと考えられる。長事元年、「等持大将軍甲胃肖像、同和歌之影」の閲覧に先だって、景徐は画像に焼香訊経をして、足利家の「武運長久」を祈っている(注24)。また、この頃には、尊氏出陣影の由来に関する説話が成立したと考えられる(注25)。尊氏出陣影が信仰の対象にまで高められ、その図像の意味が整備されたのがこの時期なのである。さて、このような流れの中で、騎馬の宗祇像はどのように評価することができるのであろうか。翰林萌藍集本の像主、宗祇の功績は、次のようなものであった。第1に、『新撰蒐玖波集』の撰集。これは、准勅撰集とはいえ、天皇の権威を荘厳し、文芸の興隆を証するものであった。実隆ら公家にとっては、実現しなかった義尚の勅撰集に代わるものとして、悲願であったと言える。第2に、守護らによる度重なる横領によって収入の圧迫されていた実隆ら公家に対し、地方大名から寄せられる金品を取り次ぎ、ある程度の経済的余裕をもたらしたこと。宗祇は、横領の差し止めを大義名分として近江へ出征しつつも、実態は将軍の直臣の権益拡大に終始し(注26)、結局は失敗に終わった義尚よりも、むしろ頼むに値する存在であったろう。翰林萌藍集本が制作された永正4年には、かつて義尚らが尊氏出陣影に抱いていた信仰が依然として共有されており、翰林萌藍集本も、尊氏出陣影を連想させることは免れなかったと思われる。先述の宗祇の功績を考慮すれば、これを制作した実隆にとって宗祇は、義尚同様、あるいはそれ以上に尊氏に擬されてしかるべき人物であったのではなかろうか。すなわち、騎馬の宗祇像の図像が出陣影を規範としている理由は、まさに尊氏出陣影を典拠としたためと考えられるのである。まとめボストン本は、永正4年に実隆を中心に制作された騎馬の宗祇像と、同じ系統の画像であること、そして騎馬の宗祇像は、生涯を旅に過ごした宗祇の姿を表すとともに、中国の漂泊の詩人に擬された姿、実隆と地方大名の仲介者としての姿、そして『新撰菟玖波集Jの撰集や実隆らの生活の安定をもたらした功績により尊氏に擬された姿などが、重層的なイメージを織りなし、理想的な連歌師像として作り出されたものであ-255-
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