⑮ 17世紀セビーリャ派絵画研究2.風俗画家、ムリーリョ一一バルト口メ・工ステパン・ムリーリョの風俗画をめぐって一一研究者:三重県立美術館学芸員1 .はじめに/てルトロメ・エステノfン・ムリーリョ(1617-1682)は、ベラスケスやスルパランと並びスペイン絵画の黄金時代を代表する画家の一人である。とりわけ、聖母子像や「無原罪のお宿りJに代表される甘美な宗教画は幅広い層に受け入れられた。このことは旧教側が展開した対抗宗教改革の政策に合致することとなり、生地でもあり生涯の活躍の場となったセピーリャを中心に、大聖堂の祭壇画から個人所有の小品に至るまで多くの作品が知られている。その中でも特に研究の進行が著しいのはムリーリョの風俗画家としての側面である。この論考では、近年光の当てられた〈花売り娘、春〉〔図l〕(166065年頃、油彩・キャンパス、121.3×98. 7cm、ダリッチ美術館所蔵(inv.199))と〈果物と野菜の入った龍を持つ若者、夏〉〔図2〕(166065年頃、油彩・キャンパス、101. 9×81. 6cm、スコットランド国立美術館、エデインパラ)を題材に取り、これまで積み重ねられた言説を整理しつつ、当時の美術状況や注文主との関係も視野に入れ、ムリーリョの風俗画研究への新たな視点を提示することを目指す。現存するムリーリョの作品群の中で最初期の風俗画は、1648年頃制作の〈蚤を取る少年〉〔図3〕(1648年頃制作、油彩・キャンパス、137×115cm、ルーヴル美術館(no. 933))である。その後、1682年に没するまで、確認できるだけで約20点の優れた風俗画を残した。年記を持つものが皆無であり、所有者の財産目録以外は文献も残されていないため、宗教画の様式変遷を適用した年代設定が行われている。それによれば、制作時期には1650年代後半と、1670年代前半の2度の山が見られる(注1)。人文主義的思想、を背景にした絵画ジャンルの位階制はイタリアからスペインにも波及していたが、本来ならば底辺に位置する風俗画に対して、17世紀のセピーリャにおいてはお膝元のローマとは異なる反応を見せている。例えば17世紀セピーリャ絵画にとって最も影響力を持った理論家であったフランシスコ・パチェコ(1564-1654)は、自著『絵画芸術』(1649年刊行、執筆は1630年代)において、ベラスケスが見せた風俗画への関心への積極的な支持を表明している(注2)。同郷の年長画家の果敢な挑戦に対し、ムリーリョが受けた刺激の強さは想定に難くない。つけ加えるならば、ムリー生田ゆき-258-
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