鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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1.エトルリアの交易活動とその変容エトルリアは、ヴイツラノーヴァ〔Villanova〕文化(紀元前98世紀)と呼ばれるイタリア初期鉄器時代文化の系譜をヲ|く古代地中海文明のひとつであり、イタリア北・中部において都市国家連合を形成していた事で知られる。紀元前6世紀には、イタリア半島とシチリア島、そしてサルデイニア島に固まれたテイレニア海の制海権を確立し、沿岸航路による活発な交易活動を行っていた。しかしその後、紀元前480年のシチリア島ヒメラの戦いにおいてシラクサに敗北し、次いで、紀元前474年に行われたクマエ遠征の失敗により、エトルリアはテイレニア海一帯の支配権を次第に喪失していった。また、紀元前430年のサムニウム人の攻撃によるカプア陥落を契機に、南イタリアのカンパーニア地方を失った。カプアとその隣接地域において、その後エトルリア語の碑文が見られなくなるのは、この事実を伝えるものとして考えられる。一連の敗戦により、テイレニア海に面したエトルリアの港は軒並み閉鎖へと追い込まれた。紀元前5世紀中頃には、それまでのような海上交易を自由に行うことが難しくなっていた。その一方で、戦禍を被らなかった北イタリア、特にポー川流域では積極的に開発が進められ、相対的に陸上交易が盛んになりつつあった。エトルリア人は、「恐るべき海賊」としてしばしばギリシアやローマの文献に登場してくる。確かに紀元前6世紀にはティレニア海一帯を押さえており、また海上交易の支配権を失った後も、ギリシア商船に対する海賊行為などの妨害を頻繁に行っていたことは事実のようである。しかしそれは、彼らの交易活動のー側面を表しているに過ぎない。また、海上における抗争相手であったギリシア人の歴史記述、なかでも紀元前54世紀のシラクサによる反エトルリア宣伝工作によって歪められたイメージでもある。この「海賊」ないし「海洋国家」としてのイメージはその後長く持続され、近年に至るまでこの文明の理解に大きな影響を及ぼすこととなった。しかしエトルリアは、海上交易の支配権を失った後に交易のあり方そのものを大きく変容させることで、一連の政治・経済上の変動に対応していったのである。以上のような時系列を踏まえた上でアルプスの北側に目を転じてみると、同じ頃にハルシュタットD期(HaD期)の段階にあった首長制社会が崩壊しつつあったという事実が眼を引く〔図l〕。フランスのモン・ラソワ(MontLassois〕や、ドイツのホイネブルク〔Heuneburg〕をはじめとする各地のHa-D期の正上集落や首長居館が急速に放棄されていったことが、発掘調査により明らカ、となつている(Gerach, 1996ほか)。放棄理由については、未だに議論が分かれているようであるが、HaD期に顕著な誇示型経済の行き詰まりや、マッサリア経由の交易ルートにおける何らかの混乱といった270

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