鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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2.交易の実態ーワインと青銅器原因が考えられている。いずれにせよ、エトルリアの交易のあり方が海上から陸上へと大きくシフトしたこの時期に、アルプス以北の地域で、ケルト人がその担い手とされるラ・テーヌ文化とその美術が花開いたということは、注目に値する〔表l〕。紀元前8世紀以降、エトルリアはブドウの栽培法とワインの製造法をギリシアより習得した。またエトルリアの貴族階級は、ワインだけでなく、ギリシアの飲酒習慣の形式である酒宴シュムポジオンを採り入れたことで知られる。例えば、タルクィニア所在の装飾古墳に代表されるエトルリア絵画には、狩猟や遊戯と並んで、酒宴の場面が数多く描かれている(パロッティーノ,1985)。このことからみても、エトルリアにおいてワインの飲酒習慣が深く社会に浸透していたことは明らかである。アルカイック期(紀元前6世紀)に入ると、エトルリアの繁栄と共に更にブドウ生産が盛んになる。この頃、ワインは既にエトルリア最大の交易品のひとつにまでなっており、その販路はイタリア半島各地だけでなく、コルシカ島やサルデイニア島、南フランス一帯にまで、拡がっていった(Bouloumie,1992)。このうち南フランスに入ったワインは、ギリシア産のワインと共にマッサリア(現マルセイユ)を経由してローヌ渓谷を遡行し、中央ヨーロッパで、展開していたハルシュタット文化の首長の元へと運ばれたと考えられる。このワインの輸出と深く関わるものとして、一連の青銅製容器の存在を抜きにして語ることは出来ない。既にホイネブルクをはじめとするハルシュタット文化の遺跡からは、エトルリアないしギリシアで製作されたと考えられる問器や青銅器が出土している。代表的なものとしては、ワインに水・蜂蜜・香料を混ぜ、るための混酒器であるクラテル、ワイン運搬用の査であるスタムノス、把手付ワイン差しとして考えられるオイノコエといった器種が挙げられる。因みにエトルリアの青銅器の優秀さは、地中海地域で広く知られていた。例えば、アリストファネスと同時代人として知られる紀元前5世紀後半のギリシア喜劇作家フェレクラテス〔Ph巴recrates〕も、自らの作品の中でエトルリアの青銅器の素晴らしさについて言及している。このことからも、エトルリア製青銅器の人気が推察される。但し、ハルシュタット文化の首長たちは、ワインにせよ青銅器にせよ、あくまで舶来品としての新奇さに惹かれていたと考えられる。そしてそれら地中海から招来された品々は、被葬者の副葬品として大量に埋納されてしまい、共同体内で富の再配分が行われていた形跡が見られない。従って、階層間の経済的格差は更に増大し、共同体を維持することが難しくなり、ハルシュタット文化社会の崩壊要因のひとつとなった。-271-

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