鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
282/592

c)。この地域における首長墓の急激な増加は、紀元前5世紀以降に中継交易の拠点とし3.青銅器の装飾パルメット・ロータス文の変容これにより、紀元前5世紀中頃には、中欧における富と権力の中心は、ハルシュタット文化圏の北側、即ちライン川中流域へと推移していったと考えられる(Frey,1999 てこの地が栄えていたことを如実に示している〔図2〕。そしてこの地域こそが、正しくラ・テーヌ文化形成の中心地のひとつであった。この時期に属する首長墓としては、ラインハイム〔Reinheim〕、パート・デユルクハイム〔BadDurkheim〕、シュヴァルツェンバッハ〔Schwarzenbach〕などが挙げられる。埋葬形式は、引き続き土葬が主流である。しかし、Ha-D期に見られたような大型の円墳は姿を消し、首長墓の大半は小型化して単独もしくは極めて小規模な群集墳を形成するようになる。また墳墓主体部においても、四輪のワゴン葬から二輪の戦車葬へ、という葬制上の変化が認められる(Haff-ner, 1992)。首長墓からは様々な副葬品が出土しているが、そのうちの幾っかにアルプスを挟んだ交易の実態が看取される。例えば、ラインハイム出土の一連の装身具を見れば、南北の特産品がライン川中流域を行き交っていたことが、直ちに理解される。頚飾として連珠をなす琉泊は、バルト海沿岸部で産出したものであり、他方、これに伴出したガラス珠とガラス釧は、製作技法とその施文によって、地中海地域で製作されたものであることが判明している(Keller,1955)。従って、ラインハイムを始めとするライン川中流域の首長たちは、南北の文物を扱う中継交易の担い手として富を蓄積していったと想定される。また、ワインと関連すると考えられる青銅製容器も引き続き数多く出土しており、飲酒習慣が交易を通じてラ・テーヌ文化の首長層に相当広まっていたことは明らかである。では次に、これらラ・テーヌ文化成立期の青銅器に施された装飾について、分析・考察してみたい。エトルリアの交易のあり方が変化した紀元前5世紀中頃、ラ・テーヌ文化圏は、様式的にはヤーコプスタールの設定した「初期様式」段階に相当する。また、中央ヨーロッパの考古学上の編年で、は、ラ・テーヌA期(LTA期)がこれにあたる。この時期のライン川中流域、いわゆるフンスリュック=アイフェル〔Hunsri.ickEifel〕地方における首長墓を集成し、そこから出土した青銅製容器の装飾について、ワイン差しと考えられるラインハイム出土青銅製容器(注3)を例にとって考察してみると、以下の点カf明らかとなる。まず、施文位置についてであるが、ケルト美術が有する特色として、その著しい装飾性がしばしば挙げられる。しかし、実際に観察してみると、頭部・胴部・把手を中272

元のページ  ../index.html#282

このブックを見る