においては当たらない。ケルト美術の大きな特徴のひとつとされる、真に植物的な動きを有するモティーフが登場するのは、この美術の第二段階である連続植物文様式の(LT-B期)段階まで待たねばならない。しかし、ラ・テーヌ文化の到来を告げる初期様式の登場後、僅か半世紀程で、直ちに連続植物文様式へと移行している。美術様式上におけるこの急激な変化は、紀元前400年頃にアルプスの北側からポ一平原に向けて大規模な民族移動があったことと関わる。通常、この集団移住の主体として、ボヘミアのボイ一族やシャンパーニュのセノネース族が想定されているようであるが、いずれにせよエトルリアとの交易を通じて知った北イタリアの豊かさを求めて、ポー川流域にラ・テーヌ文化圏の人聞が多数居住するようになったのは事実のようである(ジェームズ,2000,pp. 56 57)。そしてこの民族移動に伴い、エトルリアの陸上交易の中心地は混乱をきたし、アルプスを挟んだ南北の交易ルートが途絶するに至ったと考えられている。しかしその一方で、彼らは地中海世界と直接接触することになった。その影響は否応なしに彼らの生活全般に及ぶこととなり、それはそのままアルプス以北にまで波及して、ハルシュタット期以来培われてきた幾何学文様の伝統も姿を消してしまうのである。初期様式の盛行した紀元前5世紀中頃は、地中海世界のモティーフ・文物を主体的に選択し、自己の伝統的な社会システムのなかへと取り込もうとした時期だ、った。それは、アルプスを挟んで、エトルリアを仲立ちとする遠隔地交易であったからこそ、可能な選択であった。そしてその選択のあり方を知実に示す事例のひとつが、初期様式に見られるパルメット・ロータス文の主体的改変であったと考えられる。おわりにこれまで我が国では、「ケルト美術」をひとつの特異な非古典的美術として理解する傾向があり、そのなかに存在する時代ごとの多様性までは、殆ど触れられてこなかった。また、その独自性ばかりが強調されてきたためか、ローマ以前のエトルリアをはじめとする地中海世界との関わり合いについては、今もってあまり関心が持たれていない。しかしこの美術は、地中海世界と無関係に創造されたものではなかった。むしろ地中海世界の影響を様々に受けつつ発展を遂げていった、同時代並行様式であると考えたほうがよい。今後は、ほかの遺物や文様にまで分析対象を広げ、エトルリアとの関係を意識しつつ、更にケルト美術の成立過程について論じていきたい。-275-
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