鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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⑫ 美術評論家なかがわ・っかさの活動を通してみた昭和30年代の札幌の美術1.なかがわの活動第8号(昭和39年5月)にも、多くの追悼文が寄せられている。それらをもとに、彼研究者:芸術の森美術館学芸員吉崎元章はじめに昭和30年代は、戦後の混乱を脱し、札幌の美術において現在につながるさまざまな動きが芽生えはじめた時であった。そしてそこには、この時代を牽引したひとりの美術評論家の存在があったことを忘れるわけにはいかない。「なかがわ・っかさjというひらがな表記の名で活動するこの人物が突然札幌に現れたのが昭和28年末、それから昭和38年に34歳の若さでこの地で他界するまでの十年間にわたり、札幌だけではなく北海道の美術の動向に大きな影響を与え続けるのである。美術評論家今回敬ーはそれを「なかがわ旋風」(注1)と呼ぴ、竹岡和田男はこの時期を「戦後北海道美術の青春」と位置付けながら、なかがわの死をもってその終鷲としている(注2)。これまでなかがわについては、いくつかの文献のなかでその活動がまとめられ、ある程度まで知ることができたが、彼が残した膨大な数の評論はほとんど顧みられることはなかった。彼とほぼ同じ時期に札幌で活動をはじめ、その後の北海道の美術ジャーナリズムの一翼を担った美術評論家竹岡和田男と吉田豪介は、後に自らの評論を自選して出版(注3)しているが、なかがわのものに関しては、断片的にしか伝わっていない。今回の調査において、彼の自筆文献を網羅的にたどりながら、彼がそのなかで札幌の美術をどのようにとらえ、どのような方向を目指していたかを探ることにより、昭和30年代の札幌の美術を検証することを試みようと思う。なかがわについては、今回敬一編著『北海道美術史〜地域文化の積み上げ』(北海道立美術館、昭和45年)や吉田豪介著『北海道の美術史〜異端と正統のダイナミズム』(共同文化社、平成7年)に美術史的にみた業績が記されているほか、交流が深かった竹岡和田男の著書『北緯43度一美術記者の眼一』(昭和62年、河出書房新社)には11ページを割いてさらに詳しい記述がある。また、彼が編集途中で亡くなった『美術北海道』の活動を簡単に振り返りたい。本名・中川良。昭和4年3月、茨城県桜村栗原に生まれる。早稲田大学にてフランス文学を専攻。昭和27年に岩内在住の画家木田金次郎の作品と人に触れ、彼の芸術を生み出した北海道の風土に憧』慢の念を抱き、翌年、木田の初めての個展と雪を見たいと再び来道、そのまま12月末から札幌に定住した。当初-281-

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