北海タイムス、のちに読売新聞で展覧会評や美術関連の記事を担当し、ヒゲをたくわえベレー帽と下駄履きの独特のスタイルで画廊を巡って、辛口の批評を繰り広げた。また、美術団体などの各会派やジャンルを横断した作家聞の交流と意識向上を図る活動や美術館建設運動を積極的に進めた。そのひとつは、昭和32年6月、第一回北海道美術家祭りを中心になって計画し、そこから北海道美術家協議会の結成を導いたことである。それは短期間で自然消滅するものの、北海道初の美術雑誌となる機関誌[北美J創刊号(この号のみで廃刊)を昭和33年7月に発行させるとともに、同年7月に豊平館で開催された北海道博美術展にも深く関わっている。昭和36年12月には、これまでの活動を集大成する美術専門誌『美術北海道』を創刊。月刊の予定であったが、資金調達に奔走しながらほとんど一人で編集発行作業にあたるなかで昭和38年7月までに7号を出すに留まり、8号を編集途中に脳溢血で倒れ8月11日に他界する。2.なかがわの評論活動今回の調査では、まず札幌市中央図書館蔵のマイクロフィルムにより彼に関係する記事を探すことから始めた。それは予想を大幅に上回る件数であり、展覧会評以外にも美術に関わるいくつもの連載記事を見つけることができた。なかがわが北海道の新聞紙上に初めて登場するのは、札幌に移ってまだ日の浅い昭和29年1月21日付北海タイムスの「耳学雑話」というコーナーである。780字前後の文章がラジオ番組欄と番組紹介、芸能記事に混ざってほほ毎日掲載されている。コーナー名からも分かるように、ラジオにまつわる話から派生してその時々の話題を展開する内容である。たまたま訪ねた編集室でラジオについての原稿を数日間依頼されたと初回に書いているが、思いのほか好評だ、ったのか連載は同年5月19日まで続き、その聞に97回の掲載が確認できる(注4)。それらは「国吉康雄のことJ( 4月20日付)や「高村光太郎」(4月30日付)なども時には織り込まれているものの、ほとんどが日常的な話題に終始しており美術記事とはかけ離れたものであった。展覧会評は、「耳学雑話」連載終了と相前後する昭和29年5月14日付北海タイムスの「北彩会美術展評」が最初のものであろう。以後、北海タイムス、後に読売新聞北海道支社版(昭和34年11月4日〜昭和36年12月8日)の新聞紙上のほか、自ら発行した美術誌『美術北海道Jにおいて評論を続け、『美術北海道』第6号(昭和38年2月)掲載分までに377件の展覧会評を確認することができた。ほぼすべてが札幌市内での個展、グループ展、公募展に対するものである。月によるぱらつきはかなりあるが、多い月で一ヶ月に10回の掲載があり、一日に3本の展評が載る時もあった。なかがわが北海282
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