鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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タイムスで展覧会評を始めるまで同紙では月に一、二度のベースで今回敬ーや画家による評が載る程度であったことを思うと、彼の登場は北海タイムスでの展覧会評を一気に活気づけたことになる。またこの頃、北海道新聞では、竹岡和田男が昭和29年頃から北海道初の美術専門記者として活動を始め、少し遅れて吉田豪介も寄稿するようになるとともに、画家小谷博貞が北海タイムスでなかがわが書いていない時期に精力的に展覧会評を続けるなど、札幌の美術評論はこれまでにない活発な時期を迎えることになる。なかがわの批評は、その多くが遠慮のない辛競なものであり、それぞれの展覧会に対して真理をつきながら問題点を鋭く指摘している。そこに一貫しているのは、小手先ではなく真剣な生活から生み出された、精神的裏付けを求める姿勢であり、安易な追従や類型化に陥ることの戒めである。特に抽象画が流行したこの時期には、うわべだけを真似た表現の横行に再三にわたり忠告を発している。また、この時期はグループ展がいくつも生まれたが、公募展に迎合せずに新たな発表の場を求めることは歓迎しながらも、安易な集合体ではなくそこに一派としての主張をもつことを求め続けた。さらに、全国的にも公募展無用論が叫ばれるなかで、彼もまた道内の公募展に対してはかなり手厳しい評論を行っている。その権威主義的な体制とともに、団体としての芸術思潮をもたないこと、作家という特権意識をもちながらも作品に対しては惰性的で問題意識が薄いこと、それが劣悪な会場に甘んじていることに通じていることが主な攻撃の矛先であった。特に昭和30年6月29日付北海タイムスの全道展評は波紋を広げ、7月7日付には全道展側の反論とそれに対する「全道展解散すべし」と銘打つたなかがわの弁が大きく紙面を割いている。「評論は責任がもてる範囲で自由である」とする彼の主張は、美術家と美術評論家が対等にぶつかり合ってこそ地域の文化を高めていくものであり、そこに美術ジャーナリズムの健全なあり方があるという考えを端的に示している。その後もこの主張を曲げず新聞での批評を続けるものの、やがて制約のある新聞からより自由な発言の場を求めて自ら美術誌の発行へと至る背景には、やはり新聞社や周囲からのさまざまな圧力もあったらしい。3.北海道の美術なかがわは、新聞において展覧会評以外にも、多くの美術関連記事を手がけている。連載特集として企画したいくつもの内容〔別記参照〕は、北海道各地の動向を的確に捉えるともに、過去や未来に対する確かなビジョンを有していたことを物語っている。北海道の美術史と言えば、今回敬ーが豊富な資料と自らの体験をもとに丹念に綴っ-283-

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