4.北海道に美術館の夢昭和30年代は、日本各地で美術館の開館が相次ぐなかで、北海道に美術館建設を求める運動が盛り上がりをみせた時期でもあった。それは主に公募展会場がデパートの一角を借りていたために慢性的に狭かったこと、大規模な巡回展が適する会場がないために北海道では開催されなかったことからの要望を出発点とするものであった。なかがわも美術館の必要性を声高に訴え続けたが、ことあるごとに記してきた文章には、彼が理想とする美術館像の移り変わりが見られて興味深い。北海道立美術館の初代館長工藤欣弥は、その著書『夜明けの美術館〜道立美術館10年と建設運動の軌跡』(共同文化社、平成11年)において、美術館建設運動の発端をなかがわが中心となり企画・運営した「北海道美術家祭り」として書き出し、その後の経緯を克明に記録している。「北海道美術家祭り」は有志の実行委員会により昭和32年6月23日、札幌藻岩山麓の浄水場芝生を会場に、全道から集まった美術家や美術愛好家約200人が集い交流する会であった。ここから美術家聞の交流と北海道の美術文化の普及向上を資するための「北海道美術家協議会」が生まれ、その重要な活動のひとつに美術館建設運動を当初から掲げていた。その機関誌『北美』創刊号(昭和32年7月)には、おそらく編集にあたったなかがわの文と思われる「美術館の建設を急げ!!Jと題された一文がある。そこでは、美術館は「地方のどなたでもいつでも出て来て気安く個展やグループ展のできる場所」「誰もが好きな時に発表のできる公共の場所」として、展覧会場としての美術館を美術家たちにアビールしている。その後の北海タイムスでの連載「美術館めぐりJ(昭和34年1月21日〜2月20日)は、全国の美術館とその代表的な収蔵作品を紹介する13回シリーズであったが、そこには美術館の素晴らしさを市民に広く知らせるとともに、北海道に美術館をつくる声を高めようとする狙いがあったことは明らかである。その最終回は「空想道近代美術館」と題し、三岸好太郎のマリオネットを収蔵品と仮定して夢を語る。それは、街の中心部に位置し、展覧会場、アトリエ、図書館、資料室、会議室、宿泊所、食堂、休養所、娯楽室など美術家の生活のすべてを支える一大センターで東洋随一の美の殿堂であり、三岸好太郎をはじめ繁明期の画家たちの作品を一堂に並べるとともに、現在活躍する画家や新人たちの紹介をする活動の場としている。ここでは単に公募展や巡回展のための会場ではなく、北海道の美術の収集・展示する機能が意識されはじめている。さらに、同年に読売新聞北海道支社版に連載された「北海道の美術」においても、最終回(昭和34年9月20日)のタイトルは「美術館建設のために」である。美術館建設を「北海道美術家協議会jが今後唯一の任務とすることを語り、美術家の団結の必要性を説いている。-285-
元のページ ../index.html#295