和42年のことであった。そして、さらに十年後の昭和52年には充実した設備と多くのら45歳と偽り、それを疑うことなく信じさせるほどの確かな行動と言動であったのだ「北海道美術家協議会」は、華々しくスタートしたものの、この頃にはすでに資金難などから運営が行き詰まりをみせ、その後まもなく自然消滅する運命にあった。しかし、美術館を期待する人は着実に増え、その意志は度重なる準備総会を経て昭和36年9月に創立総会が聞かれた「美術館建設期成会」に受け継がれて運動が続けられることになる。それと相前後する『美術北海道J創刊号(昭和36年3月)では「美術館は都心に!」と題して、「現代人と現代絵画に、直接結びつくための施設、いわば、現代美術運動センター」とし、「庶民の最も近い場所である都心Jでなければならないとする考えを提示している。「運動」をするための美術館とは、作品鑑賞のためだけではなく、美術家の活動の拠点になることを願つてのことであろう。「大通り周辺の大商社を一、二社立ち退きさせるか」出来て間もない「テレビ塔を動かして建てるぐらいの意気込みがほしいjという表現は、いかにも彼らしい過激な発言である。そして、彼の最後の仕事となる『美術北海道』第7号(昭和38年7月)の巻頭言に「北海道の美術館はいつ建つのか!Jと小見出しの文章を掲載。そこには、北海道美術館建設期成会が設立されて2年が経ち幾度も陳情しているにもかかわらず、道行政が一向に建設意志を示さないことに対する苛立ちのなかから、公立を諦め寄附を募り民間で運営する美術館を具体的な金額を示しながら提案している。待望の北海道初の美術館である北海道立美術館が、三岸好太郎作品の寄贈をきっかけに旧道立図書館の建物を改装してオープンしたのは、なかがわの死後4年を経た昭学芸員を有する現在の北海道立近代美術館が開館する。戦前からあった美術館建設の声は、なかがわの行動を起爆剤として一気に大きな運動となり、その実現に向かってきたと言えるだろう。まとめなかがわが亡くなったとき、多くの人が34歳という本当の年齢を初めて知った。自ろう。しかし、それは若い者の評論では軽視し聞き入れない当時の北海道の美術界の意識が生み出したものとも言えるのである。トレードマークのヒゲもまた、童顔を隠すためだ、ったのかもしれない。なかがわは、表面的には華やかで、ありながら未成熟な当時の美術を取り巻く環境を皮肉を込めて次のように書いている。「東京と大阪をのぞいて、最も美術のにぎやかな北海道。ここには三十年来の公募展「道展」があり戦後誕生した「全道展」と並んでこの二大勢力を中心に、最近発足した公募展の「新道展」286
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