注(2)竹岡和国男『北緯43度美術記者の限』河出書房新社、1987年、38頁(3) 竹岡和国男『北緯43度一美術記者の眼1河出書房新社、1987年(1) 今回敬一『北海道美術史〜地域文化の積み上げj北海道立美術館、1970年、346頁や、その他多くの美術グループが、衛星運動をつづけている。道展は、年間百万円の予算で運営され、また個展の会場には、一日平均千人の観客がある。銀座の画廊の、一日三十人に較べると、雲泥の相違である。さらに何かの美術名簿に名を連ねる人は全道で楽に二千人を越え、公募展に参加入選して個展の一回も聞けばいっぱし画家で通用し、一号千円とか千五百円とか、値段をつけてはばからない。画家は、重要な文化人の仲間入りもして、まことにけっこうずくめな美術風土である。」(北海タイムス、昭和34年9月20日、原文のまま)。木田金次郎の作品を通して感じた、他にはない北海道の風土に対する憧れが彼を北海道へと導いた。そして、そこから生まれる北海道の美術の可能性を信じていたからこそ、現実とのギャップから辛諌な言葉とともに、この時代をリードする積極的な行動に彼を走らせたにちがいない。「根底にあるのは常に北海道、あるいは北海道の美術家に対する愛情であり、どんな批判も指摘も、よくなって欲しいという念願から生まれているのだった。」(注6)という生前親しかった竹岡和田男の言葉には偽りはないだろう。40年前になかがわが夢見た北海道美術の独自性の確立や美術家の意識改革などにおいては、残念ながら当時からそれほど大きな変わりはなく、依然として同じような状況が続いていると言わざるを得ない。しかし、北海道に美術ジャーナリズムを根付かせるために命を削るように発行した『美術北海道』は、なかがわ・っかさの意志を継いで通巻12号まで続けられ、その後「美術ペンjと名前を変えて現在に至っている。また、その後もいくつもの美術誌が発行されている。美術館も道内各地に開館し、活発な活動を繰り広げている。彼の播いた種は一部ではあるが着実に実を結んでいるのである。今回の調査を通して、北海道美術におけるなかがわの重要性を再認識するとともに、彼の北海道美術に対する愛情を深く感じることができた。また、当時の北海道美術が抱えていたさまざまな問題点が彼の評論によって浮き彫りになり、この時代の脈動を生々しく伝えている。この基礎研究をもとに、なかがわの評論を通して昭和30年代の美術を振り返る展覧会を構想、したいと思う。-287-
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