鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
30/592

③J.McN.ホイスラーと日本一一ホイスラー研究センタ一所蔵の書簡を中心とした調査研究研究者:佐賀医科大学非常勤講師小野文子はじめにアメリカ人の画家J.McN.ホイスラー(18341903)は1855年に画家になることを志してパリに移住し、その後1859年にロンドンに居を構える。1903年に没するまで、再び故郷の地を踏むことも、芸術創造のインスピレーションを得た日本を訪れることもなかった。19世紀後半に欧米で起こったジヤボニスムという現象の中に逸早く身を置き、日本美術からインスビレーションを得て制作された作品は、没後100年たった現在では、ホイスラーの代表作として知られるものも多い。これまでホイスラーについて多くの研究がなされ、日本美術の影響についても指摘されてきた。しかし、そのほとんどは浮世絵との関係を中心とした作品論である。今回の調査で、プライマリー・ソースとして重要な資料である書簡を整理すると、ホイスラーの日本美術理解と人的交流がより明確となった。本報告書では、いくつかの手紙を取り上げ、ホイスラーのジャポニスムについて、人的交流を交えながらその実像に迫りたいと思う。東洋の品物から色彩へ「この芸術的な私の息子の家は、日本と中国の物で飾られています。…中略…いくつかの物は2世紀以上も前のものです。」(注l)。ホイスラーの母、アンナ・マチルダ・ホイスラーは1864年に東洋の品物で飾られたホイスラー邸をこのように手紙に書き記した。また、1872年には「私は日本のベッド・ルームで目覚め、アーム・チェアーに腰掛けた」(注2)と書いているように、同居している母の部屋までも日本趣味で飾られていた。では、ホイスラーはいつ頃から東洋のものを収集し始め、どこで手に入れていたのだろうか。ホイスラーは1863年にジョン・オリーンに宛てた手紙に、「私はオランダへの逃避旅行から帰ってきたばかりで、古い日本の陶器に没頭していたところです」と書いており、これが、ホイスラーが東洋の品物を手に入れたという最初の資料である(注3)。パリで東洋の品物を扱う店がホイスラーの書簡にでてくるのは1864年のことで、友人のファンタン=ラトウールに宛てた手紙に、リヴォリにある店の主人に日本の衣服をとっておいてくれるように伝えて欲しいと頼んでいる(注4)。また、ロンドンで東洋20

元のページ  ../index.html#30

このブックを見る