すけひろ⑮嶋崎波響の絵画資料一一画稿にみる同時代画人との交流一一研究者:北海道大学大学院文学研究科博士後期課程白石恵理はじめに松前藩第八代目藩主資産の五男に生まれ、のち同藩の家老を務めながら、画人・詩人としても知られた嶋崎波響〔明和元年(1764)一文政9年(1826)〕。その画風は一般に、初期の南頚風の精密描写から、中期以降は平明な円山・四条派風へと変ったといわれている。現存作品を見る限り、必ずしも画風を単純に2タイプに分けることはできないが、大きな傾向としては異論はない。ただし、実数では南頭風作品よりは円山・四条派風の作例の方が圧倒的に多い。にもかかわらず、画人としての波響は南窺派・長崎派の系統として紹介されることに偏りがちで(注1)、円山・四条派の画人たちとのつながりや、画風変遷の経緯については充分な検討がなされてきたとはいえなし、。その理由としては、年紀のない作品が多いため、作品の編年作業が困難なことに加え、波響の画業の背景や絵画観を考察する上で裏付けとなる、本人あるいは周辺の人々による覚え書きなどの第一次資料がほとんどないことが挙げられる。それが、波響の絵画論を印象批評に留まらせている大きな要因ともなっている。本稿では、これまであまり詳しく検証されてこなかった波響の数少ない第一次資料ともいえる画稿類を一つの手がかりとして、同時代画人との交流の足跡をたどるとともに、江戸時代後期、特に上方を中心に「京派」として根強い支持を得た、円山・四条派の様式を作品に取り込んでいった背景と展開の一端について私論を述べることとする。1.波響の画稿と同時代画人の粉本現存する波響の画稿のほとんどは、市立函館図書館が所蔵する。全部で8点、計16帖あり、各本の体裁は別表のとおりである(注2)。このうち、『松前波響粉本集j(仁・義・櫨・智・信)5帖だけは、前所蔵者が波響末育の嶋崎彦五郎氏であったことが判明しているものの、他の画稿の旧蔵者については同図書館でも把握していないとのことである。しかし、その筆跡や内容、署名などから、いずれの画稿・粉本集も波響自身または後に門人や子孫の手によってまとめられた波響自筆稿本および波響所有の粉本であった可能性がきわめて高い。これら画稿中には、本人自筆の写生図や模写図に加え、円山・四条派を中心とする同時代画人の粉本のスクラップも多数混じっており、-292
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