画人としての波響の関心の所在と学習過程を垣間見ることができると同時に、当時の交流の幅広さを知ることができる。その意味で、『画稿波響より波驚へ』折帖6帖は、殊に貴重な資料である。写生図・模写図・粉本が、画題によって、「人物」−「花鳥獣魚」−「山水」の3種に分類して切り貼りされ、それぞれ「乾・坤」の2帖一組としてまとめられている。「人物・乾」の元表紙部分に墨書されているとおり〔図l〕、文政7年(1824)に『雑編図面譜』の原題で編纂されたものを、近代になって表装し直したものらしい。誰が現在の題名に付け替えたのかは不明だが、「人物乾Jと「山水乾」の冒頭には、水墨画や淡彩画で塁がにじまないよう、和紙にあらかじめ51いておく“どうさ”(にかわと明葬の薄い混合溶液)の配合が口伝として書き残されており、この画稿が波響から、門人でもあった一人息子の慶伴(号・波驚)へ手本として渡ったことは確かなようだ。『画稿波響より波驚へ』全6帖中に収められた総計28図の粉本に署名(模写署名を含む)がある主な画人としては、呉春(呉月渓)、松村景文、岡本豊彦、横山清輝、東東洋、東東寅、河村文鳳、河村埼鳳、渡辺南岳、鈴木南嶺、大西椿年の名が挙げられる。それ以外には、「采堂J(張月樵の門人・具谷釆堂か)、「南崖J(尾張の人、岩城南崖か)、「南江」(八尾’|各堂と思われる。農村風景を描いた淡彩画に「文政卯年jの年紀あり)、「雄仙J(森雄仙)、「玉渓」(呉春の門人・野村玉渓か)、「月窓」(谷口月窓)の署名、および「東海望)||」なる人物の名もみえる。四条派の開祖、呉春と波響とは、寛政6年(1794)8月に、京・円山の讐林寺の書面会で初めて出会っていることが、菅茶山や木村藁霞堂の記録にあり(注3)、東東洋、東寅親子とはかなり親密な付き合いがあったことがはっきりしているものの、これだけの粉本をどういうルートで入手したのかという点に関しては、一切不明である。ただし、ほとんどは、景文・豊彦・文鳳・埼鳳らが大いに活躍していた文化文政年間に入手したものであることは間違いないだろう。南嶺(見虫図)と月窓(かつて月悟が描いたものとよく似た酒宴図)による精密な着色画を除けば、これら画人たちの絵はほとんどが、墨または淡彩で比較的ラフに描かれた花鳥の写生および下図、もしくは和人物・唐人物の下絵である。画題は、花鳥の場合、梅・椿・菊・南瓜・胡瓜・松に鶴・燕・孔雀・亀・猪・めだか・鮒、和人物であれば、金太郎・大原女・漁夫・柴担ぎ・恵比須、唐人物では東方朔という具合に、ありふれた伝統的なものばかりで占められている。画人にとっての粉本の効用を、習画のための絵手本と、図様構成を図る上での参照資料の2つに大別した武田恒夫氏の論(注4)を借りるなら、波響にとって、これらかくどう-293-
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