2.手本としての応挙の写生画の粉本は、技術面での参考資料というよりは、むしろ本画制作の際の図様のモチーフとして欠かせない保管資料だ、ったと思われる。なお、上記のうち、横山清輝の下絵は計3点見られる。各国のそばには署名ではなく、「i割引の白文方印が押されているが、いずれも反転している点が不可解である。これは、波響自身ではなく、門人(おそらく息子波驚か)が整理した際に、表裏反対に貼り付けてしまった結果であろう。また、粉本とは別に、「山水坤」中には、上記の南嶺と月窓の着色画2点と並ぴ、墨刷り一葉が貼られている〔図2〕。左上3分の2に応挙筆の「西湖小景」、右半分には、寛政6年(1794)に皆川洪園によって書かれた、その画の由緒書きが刷られ、左下には、応挙・漠聞ともに亡くなり、二人を偲んで、これらを謄写したという主旨の文章が、応挙の弟子、奥文鳴によって記されている。漠園は文化4年(1807)、奥文鳴は文化10年(1813)に没しているから、この間に制作されたものであろう。波響と洪園は、波響が上洛した寛政3年(1791)に知り合っている。そもそも円山派を波響に紹介したのは、応挙と近い間柄だった洪園ではないかといわれてきたが、この刷り物は、波響と漠園、および円山派の画人たちとの長期に渡る交流を物語るものか、それとも偶然入手した記事のスクラップなのか判然としない。波響は、完成した「夷酋列像」(注5)を携えて二度目の上洛を果たした寛政3年に円山応挙に入門したのではないかといわれている。二人の関係に触れた最初期の記録としては、『扶桑名重惇』巻三十七の次の文章が挙げられる。「嬬崎氏、(中略)名は贋年、宇は世祐、渡響と旋す、通稿将監、松前家の老臣なり、霊法、はじめ宋紫石、或は呑響に皐びて、よく花鳥を槍がき、後麿奉の門人となる」(注6)しかし、実際には、応挙との直接的な出会いを示す明確な史料は見つかっていない。天明から寛政期にかけては、応挙の円熟期といえる時期で、大乗寺や金毘羅宮、金剛寺など、各地の寺社書院の障壁画制作に多忙を極めていた。寛政元年には、山陰の大乗寺に第二回目の揮棄に赴き、翌2年には、一門を率いて、御所の障壁画制作に参加している。続く寛政3年には大乗寺に第三回目の揮牽をし、寛政5年頃からは老病を発し、眼病にもかかっていることから、寛政3年、及びその後の寛政6年の波響の上洛中にたとえ会う機会があったとしても、どれほど直接師事し得たかは疑問である。むしろ、波響は京滞在中に入手した応挙や円山派画人の画稿や粉本によって独学した-294-
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