とみるのが正しいのではないだろうか。それを裏付ける事実は、やはり波響の画稿中に発見することができた。制作年代は不明ながら、『嘱崎波響粉本集乾Jには、応挙筆の「写生図巻(花鳥写生図)J (個人蔵)(注7)の一部を忠実に模した植物の着色スケッチ〔図36〕が含まれている。手本とされた「写生図巻Jは、各国に付された注記の干支によって、明和7年(1770)から安永元年(1772)、応挙三十八歳から四十歳までの三年間に制作されたと推定できる。この期間は、応挙のいわゆる「円満院時代」にあたり、書画に親しみ、本草学にも関心を持つ円満院門主祐常の指導や助言の下、作画活動を展開していた時期であった。同時に、大雲院をはじめとする京の寺院で、元明代の中国画を学習し、新たな絵の方向性を模索していた頃でもある。紙本着色の巻子は全二巻で、第一巻に二十三図、第二巻には九図をそれぞれ収める。佐々木丞平氏によると、応挙の写生図には、実際の生物を眼前にしたスケッチや、学習した書物からの抜き書きなどを集めた、雑録帖的性格を持つ「第一次写生jと、それを元にした完成作ともいえる「第二次写生」の二通りがあり、「写生図巻Jは第二次写生にあたるという(注8)。当時、応挙は祐常門主から見虫草木の写生帖を百帖制作するよう命じられていたというから(注9)、この図巻はその草稿の可能性もある。作画用資料および下図としてだけでなく、博物図譜としての効用も兼ねていたものと思われ、興味深い。波響が模写している部分は、「写生図巻j第一巻の第四図と第九図にあたる(注10)。一口に写生といっても、応挙の場合、題材によって描法を様々に変えているのが特徴だ。鈎勅(輪郭線で形を描き、その中を彩色で埋める技法)・没骨・隈取り・穆み込みなどの技法を駆使し、対象の真に迫る工夫が試みられている。波響もまた、粗削りながら、各植物を技法的にも手本に忠実に写し取ろうと努めている。例えば、クマザサや枯蕨などは、葉脈の一本一本にも注意が払われ、各図のそばに書き込まれた年紀や植物名までまるごとそっくり写しているものもある。実物写生に取り組む前段階として、写生法そのものを身に付けようとする姿勢が伝わってくるようだ。本図巻は、応挙の曾孫応立から現在の所蔵者に譲られたものであるという(注目)。元々は応挙が自らのそばに置いていたものであろうか。とすれば、波響が応挙から直接借りたとは年譜上考えにくく、応挙とごく近い間柄にあった第三者を通して見せてもらったものと推察する。その時期については、応挙が没する以前の寛政3年か同6年の波響上洛中かと思われるが、これももちろん推定の域を出ない。波響の各模写図の隅には、「波響棲秘蔵印」(朱文長方印)(注12)が押されている。こうろく-295-
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