鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
306/592

円/ん】3.波響の唐美人図と渡辺南岳この印が押されている図は画稿中でも何点かを数えるのみである。実は、同印は、市立函館博物館が所蔵する呉春筆の粉本「山中酒舗」(注13)にも見られ、文字通り波響秘蔵の手本として大切にされたものの証であろう。『画稿波響より波驚へ』にはまた、前述のとおり、応挙晩年の弟子の一人で、美人画や花鳥画に優品を残した渡辺南岳〔明和4年(1767)文化10年(1813)〕および、その弟子である鈴木南嶺と大西椿年の粉本も含まれている。この一派との関わりについては最近少しずつ明らかになってきたので記しておきたい。南岳は京都出身だが、晩年は江戸にも滞在し、酒井抱ーや谷文晃らと交わるほか、南嶺、椿年、谷文ーなどの弟子を育てるなど、江戸に円山派画風を伝えたことで知られる。文化年間以降はたびたび江戸出府を繰り返していた波響もまた、同時期に抱ーや文晃などと交友を持ち始めている。その事実は、文化2年(1805)に刊行された詩画集『名花交叢』で、抱一、文晃、波響がそろって花の図を描いていることからもわかる。これはいわゆる趣味本で、宋の詩人が十種の花を雅友になぞ、らえ、品評して詩を作ったのに倣い、名花三十客を選ぴ、花の図とそれにちなむ漢詩とを合わせて載せたものである。編著者は中田祭堂、序文は中井董堂、践文は大窪詩仏が担当している。いずれも、漢詩もよくする波響が参加していた幕臣牧野竹所吟社のメンバーであり、序には「交友する所の諸画客」(注14)が図を描いたとあるところから、ここに名前を挙げた詩画人はおしなべて風雅の集いの参会者だ、ったことになる。そして、南岳も文化元年(1804)にはすでに江戸に滞在していた。それを示す史料として、「祖銭会書画請帳」(黄葉夕陽文庫蔵)(注15)が残っている。讃岐国(香川県)の画人亀井東渓と長町竹石が江戸滞在を終えて帰郷するにあたり、彼らへの銭別のために、文化元年3月、柳橋の酒楼で開催する書画会への参加を呼びかける刷り物である。発起人は二人と同郷の築刻家稲毛屋山で、賛同者欄には文晃、鈴木芙蓉、大窪詩仏、中田祭堂らに混じって、南岳の名が並ぶ。南岳もやはり、波響と同じ詩会のメンバーと親交を持っていたことになる。文化文政期の波響は多数の唐人物図、とりわけ唐美人図を描いているが、実はその創作にあたって、直接的に影響を与えたと思われる画人の一人が渡辺南岳である。例えば、文化11年に波響が描いた「唐美人(楚蓮香)図」(市立函館博物館蔵)〔図7〕と、それ以前に制作された、南岳筆の「楚蓮香図」(個人蔵)〔図8〕を比較すると、構図はもちろん、色や描写法まで非常に似通っている。制作年代からいうと、波響の

元のページ  ../index.html#306

このブックを見る