鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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絵が南岳の図柄に拠ったか、または、どちらも同じ円山派の粉本に倣って描いたものと考えられる。ただ、衣裳の襟の色や柄、腰巻き部分に見える亀甲文様、墨線だけでさっと簡略に仕上げる裾の描き方など、首から下の要素は、波響の唐美人図全体に共通する、いわばパターン化された特色で、これらの細かく具体的な点はやはり南岳の実際の作品を参考に習得した可能性が高いのではないだろうか。波響は寛政年聞に京ではじめて円山・四条派の画風に接しているが、文化元年以降は、江戸に滞在中の渡辺南岳から本格的に円山派の粉本を入手し、作品にその筆法や様式を取り込んでいったと考えてよいだろう。特に唐美人図については、顔や頭の描写以外は、南岳の型を忠実に受け継ぎ、生涯その定型から脱することはなかった。江戸の円山派画人たちとの交流は、南岳の没後も続いたとみえ、大西椿年はのちに波響の肖像画一幅(横浜市・嶋崎幹氏所蔵、松前町教育委員会寄託)を描いている。4.花鳥図扉風への一つの帰結さて、では実際に、波響が円山・四条派の画風をどのように消化・吸収し、本画制作に展開させていったのかという点に行き着くわけだが、ここでは紙数の都合上、典型的な例だけ紹介しておきたい。波響の数ある作品の中でも、円山・四条派の影響は、文化年間末〜文政初めに制作された扉風形式の作品に最も明確に表れているように思う。文政3年作の「花鳥人物図扉風」(北海道立近代美術館蔵)、文政4年作の「十二か月花鳥人物図扉風」(個人蔵、福島県歴史資料館寄託)、制作年不明の「四季風物図扉風J(山形美術館蔵)がその顕著な例である。北海道立近代美術館所蔵の「花鳥人物図扉風」〔図9、10〕六曲一双押絵貼は、右隻・左隻ともに、右2扇が吉祥画題、中央2扇が人物、左2扇が花鳥画という基本構成となっている。まず、構図としては、右隻の花鳥画に見られるとおり、呉春や景文が得意とした、木の幹や枝で左右の画面を分ける斜め構図が多用されている。精綴な写生を基本に、付立技法とバランスのとれた彩色で描かれた、萩に目白図などは、四条派の叙情的表現に即したものである。一方、画題やモチーフについては、いずれも波響の画稿中の写生図や粉本に見られるものばかりであるが、特に鶏の図様に関しては応挙画の特徴を色濃く反映している。波響の作品中には、この扉風の雄鶏とよく似た、応挙筆の「鶏図」(寛政元年作、個人蔵)の図様をそのまま採った「松に鶏図」ー幅(個人蔵)もある。双方ともあくまでも写生を基調にし、毛描きに力を入れながらも、自然で柔らかな仕上がりを見せる応挙の画に比べると、波響の鶏は、かつて学んだ南頭風の精密描写も交じり合い、硬さが目立つ。本扉風の鶏もやはりその延長線上にあ297

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