。。つ山注(2)市立函館図書館が所蔵する波響関係の画稿としては、他に「夷首列像伝粉本J(折帖、13枚張りI峡)と嶋崎広之氏旧蔵の「南蛮騎士の図」(和綴本、6丁)があるが、別表掲載の画稿類とは(3)隻林寺の書画会については、菅茶山の備忘録『北上歴』と、木村菜霞堂『菜霞堂日記』中に記述(4)武田恒夫「粉本をめぐる諸問題」『大手前女子大学論集』29、1995年12月。(5) 寛政元年(1789)5月に、東蝦夷地クナシリ・メナシのアイヌ民族が蜂起した際、松前藩に協力(1)波響作品が紹介された近年の展覧会では、千葉市美術館で開催された『江戸の異国趣味一南頭風り、応挙風の図様を、波響独特の椴密で硬質な表現で仕上げている。また、左隻中央の玄宗と楊貴妃の人物表現は、先に指摘した渡辺南岳ゆずりのものである。本扉風は、波響の画歴でいうと、晩年に近い後期の作品である。それを念頭におくと、波響が長年蓄積してきたものの一つの答えをここに見ることができるだろう。呉春や景文からは、構図や彩色を含めた叙情的花鳥表現を、応、挙からは、花鳥を大きく主題として描く際の、徹宮、な写生を基本とした図様構成を、南岳からは人物表現の型を、波響は好んで学びとった。それらの影響下からあと一歩脱皮しきれないうらみは残るものの、円山派および四条派の画風受容の一つの結果がここに集約されている。むすび暢崎波響は、大名の子息という立場もあり、殊に文芸の分野において幅広い人脈に恵まれた人物であった。現在では一地方面人として紹介されることが専らだが、彼の画人としての出発点は、異国からの珍しい文物がもてはやされる一方で、新たな庶民文化が花聞きつつあった江戸であり、その後も、時には「貴人」として京や江戸の文化人サークルに迎え入れられ、個性豊かな人々との交流の中から、次々と作品を生み出していった。画稿中にみえる豊富な粉本コレクションからも、波響が特定の流派を超えて特別な存在として扱われていた様子がうかがえる。本稿では、波響の画稿紹介に終始し、円山・四条派の画風の波響画への具体的な影響関係についてはあまり触れることができなかった。しかし、波響が円山派、四条派それぞれの様式のどのような点に魅かれ、何を学び取ろうとしたのか、そのエッセンスについては、わずかながら指摘できたのではないかと思う。大流行』展(2001年10月30日〜12月9日)が記憶に新しい。性格が異なるため、今回の検討材料からは外しである。また、個人所蔵の画稿も他に何点か現存するようだが、実数や内容について未だ把握しきれていないことをお断りしておく。がある。富士川英郎『菅茶山(上).!福武書店、1990年および水田紀久編『薬霞堂日記翻刻編』菜蔑堂日記刊行会、1972年参照のこと。
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