た11図は現在、フランスのブザンソン市立美術館が所蔵する。(6) 堀直格著『扶桑名董惇』は、嘉永7年(1854)に成立(自序による)。引用文は、『史料大観』(7) 菅沼貞三や鈴木進らによる昭和14年頃までの論考では、この画稿を「写生図巻」と呼んで、いるが、(8)前出、佐々木丞平『応挙写生画集1。(9) 向上。(13) 紙本淡彩の粉本で、現在は軸装されている。元は嶋崎彦五郎氏から市立函館図書館への寄贈品。(14) 高木重俊「嶋崎波響漢詩論VI「梅花十詠』風雅の世界」『人文論究』第67号、1999年3月。(15) 『菅茶山とその世界E一黄葉夕陽文庫の概要一』広島県立歴史博物館、1998年。し、その鎮圧に「功績」があったとされるアイヌ指導者12人の肖像を、波響(「康年J署名)が藩主松前道贋に命じられて描いた。作品は、皆川浜園ら京在住の文化人や公卿たちの関心を集め、光格天皇の叡覧に浴している。後には江戸の諸大名の間でも評判を呼ぴ、模写も盛んに行われた。「夷酋列像」は波響によって二組作られたといわれており、その一組のうち、l図を欠い(哲学書院、明治32年)に拠る。佐々木丞平『応挙写生画集』(講談社、1981年)では、「花鳥写生図」としている。本稿では便宜上、「写生図巻」と呼ぶ。同未発見ではあるが、それ以外の図についてもおそらく実見し、模写した可能性は高いと考える。(11) 鈴木進「慮奉筆・鶏生園巻/古典解説(三)」『アトリエJ16-12、1939年。(12) 「波響楼jとは、松前にあった波響の漬屋敷(別邸)の名称、である。-299
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