の品物を売る店、ファーマー・アンド・ロジャースが手紙に出てくるのも、やはりこの頃である。ホイスラーは、1865年10月から11月にかけて、愛人でモデルのジョアンナ・フイファナンを伴って、クールベと共にフランスを旅するが、10月20日付けの手紙で、ファーマー・アンド・ロジャースへの支払い期限の10月26日までにロンドンに帰ることができないので、代わりに支払いをして欲しいとルーカス・イオニデスに依頼している(注5)。このように、ホイスラーが東洋の品物を熱心に収集し始めるのは1863年以降のことであり、オランダ、パリ、ロンドンで買い求めていたことが分かる。これらの品物は、自邸を飾ると共に、オリエンタル・ペインテイングと呼ばれる、〈紫とばら色六つのマークのランゲ・ライゼン}(YMSM47 1864) {ばら色と銀陶器の国の姫}(YMSM 50 1864) <紫と金の狂想曲金扉風}(YMSM60 1864) {肌色と緑のヴァリエーション:バルコニー}(YMSM56 c. 1864-70)の中に登場するのである。しかし、ホイスラーの興味は、色彩の調和へと移り、異国情緒溢れる作品からは次第に離れていく。1870年代になると、トーナル・ベインティングと呼ばれる一連の風景画、〈ノックターン〉を描くようになるのである。〈ノックターン〉の特徴は、基本色が画面全体を覆い、その中に人物や明かり、船を示唆する色が加えられていることである〔図I〕。〈黒と金のノックターン:落下する花火}(YMSMl 70 1875)や〈青と金のノックターン:オールド・バターシー・ブリッジ}(YMSM140 1872-75)には広重の影響が現れているものの、1870年以降の作品で、ホイスラーが東洋の女性を思わせる絵を描いたのは〈日本の女性}(M. 458 c. 1872)や〈日本のドレス}(M.1227 1888-90)などのいくつかの小品に限られている。これらの作品は、1872年に初代館長ヘンリー・コールからサウス・ケンジントン美術館(現ヴイクトリア・アンド・アルパート美術館)のために「日本の美術職人(Japaneseart worker)」というテーマでモザイク画を依頼されたときのものであろう。ヘンリー・コールは、185773年の問、同館の改善と発展に関わった人物で、アルパート公と共に、ヴイクトリア朝におけるデザインの向上を説き、博覧会において東洋の品物を見本として展示した人物である。へンリー・コールの息子、アラン・コールによると「ホイスラーは日本美術とヴェラスケスにおいて芸術はクライマックスに達したと考えていたJ(注6)というが、ホイスラーは実際に日本美術の何に関心を持っていたのであろうか。最も注目すべき手紙のひとつは、ホイスラーが1868年9月30日にファンタン=ラトウールに宛てた手紙であろう。パリの学生時代に知り合ったファンタンは長年の親友であり、ファンタンの〈乾杯(真実礼賛)> (1865年)ではホイスラーが着物を着てポー21
元のページ ../index.html#31