898)にいたる平安前期に集中して、神社恒例の年中祭杷が国家公的性格を付与されての神(氏神)まつりを描いたものとの、二種類に大別される。前者は早くから朝廷の尊崇を得た大社の祭礼、一方後者は社名を比定することもない小嗣の神まつりである。表中前者には吹を、後者には交を付した。〔表l〕から指摘できるのは、祭礼の絵画化には何度かの転機があり、そこに神社や祭礼に対する信仰の変化を読み取れることである。まず大神、賀茂、春日といった、朝廷の公祭の絵画化についてだが、奈良時代後期の春日祭を曙矢とし寛平年間(889〜いる(注3)。これらは私的祭記(氏神祭杷)が公的祭杷化したものと見なすことができる。大和の古社、大神社は、古代律令制の神祇令から年中祭杷に遇されることが規定され、都が平安京に遷って貞観年間(859〜877)までにはその恒例祭杷が新たに公祭とされている。岡田荘司氏は大神祭の公祭化については、皇室外戚神の祖として、平安京の神々に加えて大和の古杜を尊重しようとする、神国意識のあらわれも要因とされている。ただし大神祭の絵画化は、醍醐天皇期以前しか記録に残らず、摂関期にはもはや絵画化される事例は僅少だったとみていいだろう(注4)。代わりに摂関期に入ると、藤原氏の氏神でもある春日祭が絵画化される例を多く知ることができる。大同年間(806〜810)に公祭となった賀茂祭は、神社の私祭である「みあれ神事」、国司親臨の国祭、警固の儀、斎院御腰、摂関賀茂詣、公祭当日にあたる宮中・路頭・社頭の儀、最終日の解陣・還立の儀と、6日間にわたる賀茂社、山城園、朝廷による複合神事であった。天皇や貴族、庶民にとってもそれぞれの立場で一番の関心を集めた祭礼である。祭といえば賀茂祭をさすほど認識され、平安時代を通じて、またそれ以降も本稿で対象とする時期には、最も注視され描かれつづけた祭礼であった。絵画化の基盤としては、賀茂祭は、嵯峨天皇・平城上皇双方による「二所朝廷」といった異常事態の中で成立し、祭の前後に警固・解陣といった軍事の示威行為ともいえる儀があり、天皇の内廷機構すなわち内蔵使・近衛使・馬寮使が祭使の中心としてクローズアップされる、朝廷神事としては絶対的な天皇祭記であったことも、見落としてはならない。また、頻繁に絵画化の確認される祭礼に、朝廷が行う重要な年中行事である臨時祭が挙げられる(注5)。臨時祭には、賀茂、石清水、平野、祇園社の例が知られる。賀茂臨時祭は宇多天皇期から始まり、醍醐天皇の昌泰二年(899)から恒例化した。石清水臨時祭は承平・天慶乱平定の報養に始まり、円融天皇の天禄二年(971)に恒例化。平野臨時祭は花山天皇の寛和元年(985)、祇園臨時祭は崇徳天皇の天治元年(1124)にそれぞれ始まっている。ここで天皇名を記したのは、後述のように臨時祭が天皇と304
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