鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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いう特別の位にある個人の祭として、「臨時jという名称、をもちながら年中恒例の儀として定着した、天皇の「私」の意識を神事にもたらしたものだからである。この時期の天皇の神助への依存度なども鑑みて、〔表l〕にあらわれる臨時祭は、三月中午日の石清水臨時祭、十一月下酉日の賀茂臨時祭の二種の祭礼に限定してよいと考えられる。賀茂臨時祭は、宇多天皇の即位の報妻と、皇位の安定、皇統の継承祈願により始まったと考えられている。事前に宮中で臨時祭試楽の儀が行われるなど、醍醐天皇の延喜初年(901)頃迄には、式次第も調えられていった。石清水社の祭礼は、八月の石清水放生会であるが、頻繁に絵画化されていたのは、三月の石清水臨時祭の方で、あった(注6)。八幡神は武運長久の神として知られるが、石清水臨時祭は承平・天慶の乱平定の報妻により朱雀天皇によって天慶五年(942)から行われた。この乱を機に朱雀天皇の神社信仰は大きく転換したらしく、とくに賀茂社と石清水杜への信頼度が篤く、賀茂臨時祭の例に倣って石清水臨時祭を開始し、石清水臨時祭と同時に天皇の賀茂社行幸が計画された。天皇が自ら杜に出向くという神社行幸は、院政期のひとつの特性として位置付けられようが、ここにその先鞭がつけられたわけである。石清水臨時祭は円融天皇の天禄二年三月から毎年の儀として恒例化するが、以降も、とくに天皇の私的祭杷として、即位後初めてのものは特別視されていた。〔表1〕における初出は寛仁二年(1018)の摂政藤原頼通大饗に立廻された扉風であるが、院政期、それ以降も絵画化され続けたことが確認できる(注7)。臨時祭は天皇個人の「御祈jに始まり、たとえば宮中の儀をみると、恒祭においては祭使の出立の儀を観覧するだけであるが、臨時祭では腫物に天皇自らの械れを遷す「御親儀」があるなど、祭事の中枢部分が社頭と同時に宮中にあることが認められる。これは天皇が祭事の主体者であることにほかならない。祭使にも天皇の側近のものが多く充てられた。賀茂臨時祭が定着した醍醐天皇の時代は、内裏における天皇自身の信仰の変革期であり、神事・仏事の再形成期でもあった。この時期に密教修法あるいは陰陽道による修法も発展・定着したのである。一方、これに続く10世紀の半ばは、絵画のあり方にも画風の変化がみられる時期であった。それまでの唐風の影響を強く受けた生硬で力強く緊張したものから、穏やかで細やかで、平遠的な画風が好まれるように主流が変わり、さらに11世紀初め、これが洗練・完成したと指摘される(注8)。祭礼図もその影響を受けたことに変わりはない。二月の田の神まつり、四月と十一月の家の神(氏神)まつりといった小網の神まつりが、穏やかな日本の風景のもとに描かれるようになっていった。農民の屋敷地の垣根に咲く卯の花、都ぴた田園風景とともに展開する神まつりの光景。これらは後者-305

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