の画風でこそ、情緒豊かに描き上げられるものであった。この時期から摂関期までは、中世的な荘園公領制はまだ押し寄せてはおらず、百姓の家々ごとの神まつり、一門の屋敷神のまつりとして四月・十一月の農耕神事が、また二月の田の神のまつり(予祝祭)も村落共同体の神事としてとりおこなわれた(注9)。この情景が都の貴族の郷愁をも誘って、かなりの頻度で絵画化されたのである。〔表I〕の結果からさらに言及しておきたいのは、「御霊会」とよばれる祭礼が、この時点ではいまだあまり絵画化されていない事実である。たとえば稲荷社について、二月初午稲荷詣は数多く絵画化されていたことが知られる(注10)が、稲荷御霊会とも称された稲荷祭の神輿渡御や祭列、馬長行列のことが絵画化された例を、この段階では確認することができない。祇園御霊会、北野御霊会、紫野御霊会(今宮祭)、稲荷御霊会ともに、すでに10世紀後半から11世紀前半には祭儀調い、挙行されていたことが知られるが、摂関期までの絵画化の例は確認できない。しかし後述するように、「年中行事絵巻Jではその熱狂の様が活写されるのである。摂関期の祭礼絵画化の代表例として、[摂政藤原頼通家大饗料倭絵四尺扉風十二帖]を挙げておきたい。絵師、織部佐親助に描かせたという全12帖の大部の扉風の春から夏には、春日祭使出立の儀、石清水臨時祭、賀茂祭が描かれていた。今をときめく藤原道長の息頼通が、摂政に任じられた記念の大行事、大饗という一大イベントに室札として立廻された本扉風は、画題に絵師、和歌作者、能書家と、厳選し意を尽くして制作されたことを、想像するに難くない。とくに春日祭使出立の儀が描かれたことについては、頼通が元服の翌年に十三歳で春日祭使を務めたことと深く関ろう。二年中行事絵巻に見られる祭礼図摂関期と院政期の端境期、後三条天皇および白河天皇の時に、諸社に対する概念に大きな変化がみられた。延久二年(1070)八月に石清水放生会が勅祭となり(注11)、同四年三月に稲荷・祇園・日吉の三社への行幸が始まる(注12)。承保三年(1076)より毎年三月中に石清水行幸、四月の中申日に賀茂行幸をなすことが定まり、これら二行幸は年中行事として定着した(注13)。後白河天皇も即位の翌保元元年(1156)三月十日に石清水社、四月丙申日に賀茂社への行幸を果たしている(注14)。一方永保元年(1081)に、祈年穀奉幣の諸杜に日吉社が加わり、二十二社に固定した(注15)。後白河天皇と通憲入道藤原信西により打出されたといわれる保元元年閏九月十八日宣旨における「一、可令下知諸社司、注進社領並神事用途事」の対象とする諸社にも、この二十三社がそのまま名を連ねている。封戸や庄園の勅免が認められ、306-
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