また神領を立ててゆけるほど、二十二社には規制が緩慢だったことがここからもわかる(注16)。貴族政権も終駕を迎えようとしている12世紀後半になっても、依然として朝廷の殊遇を受けた社、二十二社の権威が保たれていたことは、治承三年(1179)に平清盛が厳島社を二十二社の列に加えようとした事件もその証左となる(注17)。二十二社のうちでも、一条天皇在位期(986〜1011)に加列された北野社、祇園社は、新たに興った、御霊信仰を基盤に崇敬を得た杜であった。また稲荷社の祭礼も「稲荷御霊会jと称されていた。前述したように摂関期に絵画化された例は管見に触れなかったが、後世に至っても広く人々の心をとらえて離さなかった社と祭礼である。後白河院政期には、承安二年(1172)院は祇園御霊会に騎進する馬長の数を増やすよう沙汰し、神輿三基と獅子七頭を寄せその刷新を図っている(注18)。また二十二社の範時にはなかった今宮杜が、後白河院政期に朝廷に認知され、御霊会の祭礼形態を整えていったことが指摘できる。祭礼当日に院北面から、祇園御霊会などと同様に馬長・田楽を勤仕させるまでになっていた(注19)。馬長とは、祭礼に向けて発せられた騎乗の童のことで、童、自龍、それに続く雑色等数人の「むら」とも呼ばれる集団をひと組として寄進され、これらが何組も行列を作って渡り歩いた。馬長の風流過差はしばしば非難・禁止の対象ともなっている。さらに13世紀の半ば成立とみられる『神祇官年中行事』には(注20)、紫野今宮祭に神祇官から幣吊や供神物を調え献じることが記される。一方、院政期初めから造寺造仏が盛んに行われたが、後白河院は独自の神祇観をもち、寺院に付属した鎮守的な社とは異なり、造社という宗教的かっ政治的行為を行い、祭礼も創始した。後白河院により斎き祭られた社には、まず今熊野社と新日吉社が挙げられる。『百錬抄』永暦元年(1160)十月十六日条に「奉移熊野御体於新造社壇、今熊野是也、上皇御願也、同日、奉移日吉御体於東山新宮、同上皇御願也Jとあって、自らの法住寺御所を営むより先立つてこれらの杜を勧請・造営した。後白河院が熊野と日吉に格別の信仰を寄せていたことは、度重なる本社への御幸によっても明らかである。造営後、新日吉社では応保二年(1162)四月三十日に、後白河院の沙汰で初めて東山新日吉祭が挙行された(注21)。新日吉祭には祇園御霊会や稲荷祭、今宮祭同様に、朝廷や院、諸貴族から馬長が騎進されている(注22)。さらには、承安五年(1175)六月に蓮華王院惣社が後白河院によって創始された。石清水八幡以下二十一社のほか、日前宮、熱田、厳島、気比等の杜を勧請し、本地に所見のない目前宮、熱田両社以外はみな、本地御正体を絵像に図したという、特異な杜である(注23)。鎮座の年の十月三日には、初めて蓮華王院惣杜祭が営まれた。この祭礼にも後白河院の院宣によって、307
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