カルョしろ公卿、殿上人、僧綱等から馬長が騎進されている。さらに馬長行列のほかにも惣社祭のあいだには、相撲・神楽・舞楽も催され、先立つての試楽や後宴もあった。祭礼当日には後白河院北面の衛府等が院の許しを得て紅衣を着し垣代に立ち並んだという(注24)。この祭は、創始の翌年には七月に建春門院滋子が没したため行われなかったが、またその翌治承元年(1177)より、木曽義仲によって法住寺殿が焼き払われる前年の寿永元年(1182)まで、毎年十月に行われ年中行事化していた。このように後白河院は、院御所法住寺殿に近接した地に新しく杜を造営し、自らの沙汰で新たな祭礼を執り行ったが、それは御霊会の特色に準じる、行道風流をともなうものであった。一方で、みてきたように祇園や今宮の両御霊会にも意を注いだのであった。後白河院を中心に祭礼観の歴史的経緯をみてきたが、「年中行事絵巻jはこの後白河院が主体的に関って制作された。現在は近世の模本しか残らないが、原本に忠実な図様とされている。大きく田中家蔵本(住吉本)と宮内庁書陵部蔵本(鷹司本)の二系統に分れるが、現存模本は錯簡も多く、祭礼名の比定もまだまだ論議が必要である。描かれた各祭礼を記録と照合し検討する余裕はここではないが、気付いた点を指摘しておきたい。まず模本のうち個人蔵本、仙台市博物館蔵本などの調査による知見から、現在の住吉本では何巻かに分散して描かれる各祭礼の場面は、もともと一続きになって巻をなしていた「年中行事祭礼図巻Jなる姿であったということである(注25)。おそらくこれは制作当初からで、このようなかたちで「年中行事絵巻」を構成したことに、この絵巻の作為のひとつを読み取る必要があろう。後白河院の祭礼観を反映し、御霊会、とくに馬長・田楽をふくめ祭礼の行道風流が活写され、その熱狂を伝える(注26)〔図l〕。駒形稚児の描かれる祇園御霊会神輿渡御の場面を除いて(注27)、これらの祭礼名の比定には、今宮祭、新日吉祭(小五月会)、蓮華王院惣社祭も視野に入れ再検討の要があるが、後考に期したい。朝廷主体の祭把についてであるが、賀茂祭は「年中行事絵巻」においても、社頭の場面のみならず、祭使出立の儀や還立の御神楽など、何場面にもわたって多くの紙数を割き描写されている。賀茂臨時祭も各祭儀が要所をとって描出される。春日祭については祭使出立の場面のみが現在も残り、また石清水臨時祭についても今は散逸した部分に描かれていたと考えるのが自然であろう(注28)。一方の、田の神のまつりや、家の神のまつりは、表面上は「年中行事絵巻」に表われ出て来ない。しかし、この絵巻を通覧すると、ささやかな祭記をいとなむ庶民の姿308
元のページ ../index.html#318