が随所に見られ、絵師のまなざしを感じとることができる。住吉本巻三の、神社の斎庭で闘鶏が行われる場面〔図2〕は、小柄に供物があり鼓を打つ坐女の姿も見え、多くの人が集って、庶民の神まつりの日の情景を描いている。闘鶏も神に捧げる神事なのであろう。同別本巻三の「安楽花Jとされる場面の中ほどにも、歌舞集団が招き入れられた、寂れた邸宅門前の小さな桐の庭前で、草合に興じる姿が描かれる。「安楽花Jかどうかは即断できないが、いずれかの神事の日の情景であり、闘鶏と同様のことが言えよう。また住吉本巻十二の今宮祭とされる祭礼図は、田園風景の中にまつりの日の様子が描かれている。拝殿に座す神官や供僧のほかは、坐女と庶民のみのようだ。御幣を奉じる里人、老婆の手を引き詣でる女の姿もある〔図3〕。この素朴な神事の形態を見ると、後白河院によって強く意識された平安末期の今宮祭とみることに疑念を感じる。ここには「郷の御霊会」(注29)ともいうべき、村落全体の神まつりの情景が描かれているのではないだろうか。このように年中行事絵巻の祭礼図については、まだまだ検討の必要があるが、多分に後白河院の祭礼観を反映したものであったとみる。ここに政治性を読み取ることも考えねばならない問題だろう。三鎌倉・室町期の祭礼図年中行事絵巻以降、鎌倉・室町期の祭礼の絵画化はどのように展開したのであろうか。ここでは今後への展望の意味をこめ、その動向を少しく述べておきたい。〔表2〕にみられるように、扉風歌によって祭礼場面の描写をたどることはできるが、その数は激減している。貴族政権の衰退により、慶事に際して制作される扉風数は減少の一路をたどった。画題としては春日・賀茂の両祭礼と、賀茂・石清水の両臨時祭という、旧来の朝廷の祭りを描いたものが中心である。ただひとつ四月の神まつりを描いた例が知られるが、これは大嘗祭の扉風という特殊性から、悠紀国の情景を描く必要があったからでもある。注目されるのは、歌人藤原為家とも親交のあった、近江日吉大社禰宜祝部成茂の七十賀扉風である。近江の名所を描いた四季扉風の構成をとり、その中の二月に天皇の日吉社への行幸と、四月の日吉山王祭礼、唐崎浜での神輿の湖上渡御が描かれていた。前者は神社行幸という、院政期以来の宮廷祭記の絵画化が確認される唯一の事例である。また後者は井上研一郎氏の指摘どおり(注30)、このような事例がやがて、中核的なモチーフとしての祭礼図、すなわちこの場合は「日吉山王祭礼図」に発展してゆくのであろう。賀茂祭に関しては、鎌倉期の賀茂祭の様子を描いた唯一の「文永賀茂祭図」が描か
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